掲載日 : [2009-01-28] 照会数 : 7654
フラッシュ同胞企業人<31> ミクロ世界の塗り加減
[ 1929年慶尚北道迎日郡東海生まれ。4歳で渡日。安木小卒(島根県)。大阪のデザイン、経理専門学校卒。69年に大阪製缶塗装工業所設立。民団大阪本部顧問。3男4女、孫15人。 ]
医療関係専門の塗装業
大阪製缶塗装工業所の李相鶴会長
以前は製缶から塗装まで行っていたが、近年は医療関係の塗装にシフトした。
「車の板金塗装と同じで、でこぼこしたものを直しながら塗装する。リサイクル用の缶類は量をこなさなければならず、板金には限度があり、塗装だけを請け負うことになった」
塗装の良し悪しは下地処理いかんで決まる。ペーパーやシンナーなどで缶や薬棚を磨き、吹きつけ塗装をしたあと、釜で乾燥させる。
「むらにならないよう、均一に塗るのが技術力。昔は色見本を示しながら、希望に近い色を決め、塗料をすべて使い切ったものだ。最近は塗料番号で注文を受けるので、残ったものをほかに代用できない。薄く、軽く、塗りの厚さはミクロの世界という厳しさだ」
かつて、塗装代は1平方㍍あたり2000円から2500円だったが、最近は「5000円もらっても合わない」と悲鳴をあげる。
梱包で基礎築く
1929年に慶尚北道の迎日郡で生まれ、4歳の時に両親とともに島根県に渡った。戦後、一時帰国したものの、言葉もわからず日本に戻った。結婚後、北送運動から逃げるようにして大阪に移った。
「運転手をはじめ、できるものはどんな仕事でもやった」。輸出用の梱包屋で働いていたところ、倒産したのを契機に自立し、松山梱包を起こした。
「人の運とはわからないもの。59年に伊勢湾台風が起こったため、梱包業が大忙しとなった。数カ月間で借金を返済し、アパートまで建てられた」。この仕事は昼夜を問わず、いつでも船積みできる24時間体制が必要だった。「寝る時間は不規則だったが、苦労したおかげで、財政基盤を築くことができた」
製缶塗装業に従事したのは、偶然だった。貸した金の肩代わりとして製缶塗装工場を引き受けることになった。63年頃から梱包業と掛け持ちで塗装業を始める。
最初は東京ホーチキの協力会社として、火災報知機が主な仕事。ベルや警報盤、分電盤、配電盤などの製缶塗装を手がけた。梱包業を完全に廃止し、69年に大阪製缶塗装工業所を設立、本格的に製缶塗装業に乗り出した。
激減の同胞業者
「70年の大阪万博を前後して、仕事はいくらでもあった」。売上額はピーク時で2億円を超えた。「景気が良かったのは80年代半ばまで。その後は、大手の量産化により、中小零細の仕事は減少していった」
利幅が少なくなったため、製缶部門を協力会社に譲った。医療関係の塗装にしぼり、缶や薬棚などを手がけている。息子2人が引き継いでやっているものの、8000万円ほどあった売上額が、昨年は半減した。
「同胞で10カ所以上に工場を有する塗装業者がいたこともあったが、いずれも廃業し、残っているのは当社だけかも知れない。故郷の浦項に持っていた山や田畑が工業団地に変わった。そこに進出し、起業できればと検討中だ」
◆大阪製缶塗装工業所(株)大阪市城東区諏訪4‐21‐2(℡06‐6961‐6743)
(2009.1.28 民団新聞)