掲載日 : [2009-09-16] 照会数 : 6481
サラムサラン<11> メンイン・アガシ
ソウルの下町、麻浦のホテルに長逗留した折、フロントに頼んでマッサージを呼んでもらった。部屋に現れたのは20代半ばの小柄な女性だったが、杖を引く、目の不自由な人だった。
「お仕事?」‐型通りの日本語で尋ねてきたが、下手なりに韓国語で答えると、硬かった表情が和らぎ、活き活きと変化した。「大勢の日本人客に接してきたけど、韓国語でお話できる人は初めてですよ」‐根が明るい性格なのだろう、しばし世間話に花が咲いた。腕もよし、きっぷもよしで、次回も指名したいと思い、どうすればよいのか尋ねたところ、事務所に直接電話をして、「3番のメンイン・アガシ」を指名してくれという。「メンイン」は「盲人」、「アガシ」は「娘」のことだ。
数日後に指名して呼ぶと、現れるなり、慌てた様子でポケットから紙幣を取り出した。いくらか教えてくれという。百ドル紙幣だった。「ウォンの札なら、触っただけでわかるのだけど」‐前の客は香港人で韓国語が通じず、彼女は客の英語がわからずで、意思疎通がうまくいかぬまま受け取ってしまったらしい。「英語はできるか」と尋ねるので、「それなりに」と答えると、客に電話してくれと懇願する。規定料金より高額を受け取ったので、一部を返すのだという。香港人は捕まらなかったが、彼女の善良さだけが印象に残った。客も勘違いしたのではなく、胸に響くところがあってチップをはずんだのだろうと思った。
何度目かに呼んだ時、「相談がある」と言い出した。恋人がいて、やはり盲人でマッサージ師をしているが、仕事のため済州島に移ることになった。「結婚して、一緒に行くべきでしょうか。知り合いもいない遠い島での暮らしに耐えられるか、不安です」‐。「愛さえあれば道は開ける」と、私の返事は月並みだったが、意を強くするところがあるのか、彼女は頬を紅く染めて頷いた。 ホテルの近所に深夜営業のスーパーがオープンした。従来の韓国にはない新しいタイプの店だった。深夜に覗いてみると、店内のスタンドで、白い杖を携えた3人が揃ってカップラーメンを啜っていた。女ふたりに男ひとり、一番若いのが「3番」の彼女だった。仕事帰りらしく、暖かそうな白いオーバーを着て、ふうふうと冷ましながら、器用に麺を口に運んでいた。声をかけようかとも思ったが、遠慮してしまった。こちらの腰が引けてしまうほど、ラーメンを啜る3人には濃密な絆が張り詰めていた。胸が熱くなってきた。『頑張れ!』‐善良なその人の幸福を、そっと私は祈った。
多胡 吉郎
(2009.9.16 民団新聞)