掲載日 : [2009-11-05] 照会数 : 5862
サラムサラン<13> ふたりのネーリー<上>
晴れ上がった秋の青空の下、各国選手団が入場した。ソ連選手団が行進する。中華人民共和国の選手たちもいる。冷戦時代を象徴した「壁」を越えて、世界の若者たちが集まった。
1988年、ソウルで開かれたオリンピックは、韓国にとっての歴史的行事だっただけでなく、世界の流れを変える分岐点ともなった。私は中継班の一員として現地に赴いたが、歴史に立ち会うような興奮を覚えたものだった。競技について強い記憶が残るわけではないが、あの年の秋、ソウルが世界と交わした理想の熱気については、なおも忘れることができない。
「壁」の向こう側の雄であるソ連は、友好ムードの演出に巧みだった。大会後の経済協力を当て込んでもいたのだろうが、韓国人のハートに響く人材を派遣してきた。そのようにしてソウルを訪れたふたりのネーリーが、私のソウル五輪の思い出の中心に腰を据えた。
そのひとりは、ネーリー・キム。往年の女子体操界の花形、モントリオール五輪でコマネチと激しく争い、床運動で出した10点満点の演技は、運動と美が融合した完璧なものだった。その彼女がソ連チームのコーチとしてソウルに現れた時、韓国社会は同胞に対する無条件のあたたかさをもって迎えた。愚かにも、私はソウルで初めて気づいたのだが、ネーリー・キムの「キム」とは、韓国人の姓である「金」だったのだ。
学生時代の終わりに、団体旅行ながらシベリアを訪ね、ハバロフスクの市場では、キムチを売る韓国系の婦人たちとも言葉を交わしたが、それらの人々とネーリー・キムが結びつくことがなかった。日本の植民地統治の影響で、沿海州には多くの韓国人が移住したが、スターリンは韓半島の近くにそのような民族集団が居住することを恐れ、30万人もの韓国人を中央アジアへ強制移住させた。極東の近代史の重く暗いうねりの中から、世界を魅了した体操界の名花が奇跡のように生まれたのである。
現役を引退して以降、キムの人生も平坦ではなかった。時に自堕落にもなり、離婚も経験した。その彼女にとって、ソウルでの歓迎は予想外のあたたかさに映ったらしい。若き日の面影を残す大きな瞳が濡れて輝くのを、私はテレビのニュース映像で何度か見た。
オリンピックには、やはり理想がほしい。国家の威信や経済効果ばかりが目立っても、世界が集う平和の祭典としてはもの淋しい。「壁」を越えて父祖の地を訪れたネーリー・キムは、ソウル五輪が抱えた理想の申し子だったに違いない。
多胡 吉郎
(2009.11.5 民団新聞)