北送事業の開始からこの14日でまる50年。同事業に果たした朝鮮総連の役割を検証し、その責任を問う動きは風化するどころか、ますます強まろうとしている。公開が解禁された関係諸国・機関の公文書を含む情報、また何よりも、被害当事者である元在日の脱北者による証言など、総連の罪過を明らかにする新材料は後を絶たない。こうした情報をこまめに収集・分析し、真相に迫った『北朝鮮帰国事業 「壮大な拉致」か「追放」か』(菊池嘉晃著)がこのほど刊行された。元在日の脱北者が総連を相手取って起こした賠償請求訴訟も、大阪地裁による11月30日の敗訴判決に屈することなく継続される。
■□力つける元在日の脱北者を認めるまで
「裏切り」呼ばわりにめげず
偽りの「地上の楽園」に多くの在日同胞を送り込んだ責任を取れ−−1963年10月に「帰国」事業で北に渡り03年11月に脱北、05年7月に来日した高政美さん(49)が総連に損害賠償を求めた訴えは「時の壁」などを理由に退けられた。
高さんが来日後、6カ月以内に提訴しなかったことをとらえ、民法上で賠償請求権が消滅する「除斥(じょせき)期間」を機械的に適用したものだ。判決は総連の責任に対する判断を回避し、「北に残る親族を案じつつ、本名をさらして提訴を決心するには覚悟と時間がいる」とした原告側の実態や心情をいっさい斟酌しなかった。
総連中央本部はこの訴訟について、ノーコメンを通している。しかし、その裏では「帰国」事業の正当化に躍起となり、脱北者に「裏切り者」「犯罪者」とのレッテルを貼って圧迫、嫌がらせを加えていることが知られている。
「なじめない一部が脱北」
「日本で虐げられた在日が勝ち取った、国際的にも正当な事業だった」「宣伝は事実とかけ離れたものではなかった。帰国者は自らの意思で祖国に渡り、医療や教育を無料で受けた。一部のなじめなかった者が脱北しただけだ」(総連大阪府本部の元最高幹部の発言。読売新聞の連載「脱北 帰国事業の果てに」=11月25日付から)。
これが今に至るも、総連指導部の実質的な公式見解である。機関誌「朝鮮新報」は10年前、「40年迎える在日同胞帰国事業‐実現までの道のり」と題した記事で、「在日同胞自らが発議し、日本当局、とくに南朝鮮当局の反対にもかかわらず、1年足らずの間に2万の大小集会に延べ235万人の同胞が参加するなど、精力的な活動で勝ち取った『資本主義から社会主義への大移動』」と自賛した。
「帰国実現50周年」に際しても、11月27日付と30日付のハングル版に関連記事を掲載し、感涙にむせんだ「帰国」同胞と熱烈に歓迎した北民衆の姿、「我々が少し辛くとも同胞たちのために」と「人民が呼応して実現した生活保障施策」を紹介し、《祖国の恩恵》を強調している。
いまだに強調「祖国の恩恵」
そこで北韓の在日同胞事業局のファン・ドシク局長は「1959年12月16日、242世帯795人が最初の帰国船に乗って清津港に到着した。それから84年7月27日まで、187次にわたり9万2125人が帰国した。それ以降も帰国を希望する同胞たちがいて、帰国者は計10万余人になる」と述べ、こう語っている。
「戦争が終わって間がない時期だった。当時、最も困難だったのは住居問題だった。そこで国は、帰国同胞たちに最優先的に住居を配定できるよう手を尽くした。また、米は大変貴重だった。私の幼い時の記憶でも、白飯を食べられたのは正月と8・15、そして自分の誕生日だけだった。しかし、帰国同胞たちの家庭には、国が米櫃(こめびつ)を満たしてあげた。生活道具もすべて提供した」
総連は現在まで一貫して《同胞たちの自主的で熱烈な帰国運動とそれに応える祖国の温かい心》という虚構を維持している。
「苦しい中で精いっぱいやったのだ」という今さらの弁明の意味は何か。同胞たちが清津港に降り立ったとたんに襲われた絶望感とそれを裏切らなかった悲惨な生活を、仕送りと不安にさいなまれ続けてきた在日家族の疲弊感を、自らの苦境を吐露することで割り引くことを装いながらの、脱北者と北韓に不審を持つ在日家族らに対する開き直った非難以外の何物でもない。
それにしても、住居もコメも当時から不足していたことを、北韓当局者はいつから口にするようになったのか。こうした実情を知らされた上での、自らの意思による「帰国」であれば、また貧しくとも尊厳が保たれ、将来への希望が少しでもあれば、今日の事態にはなっていない。
今後とも日本入国が確実に増える元在日同胞脱北者は、その親族や友人、あるいは支援者などとともに組織化され、まとまった力になるだろう。眞顏で偽りを押し通し、脱北元同胞を「裏切り者」とののしる総連の態度が変わるまで、彼らの告発が緩むことはない。
■□仕組まれた「壮大な拉致」
物語る資料や証言 「ヒト・モノ・カネ」移動が脅威生んだ
いまだに「同胞が自ら勝ち取った帰国」「宣伝は事実とかけ離れたものではなかった」(総連大阪元最高幹部)と言い張る現状があり、まして、そのような体質によってもたらされた「帰国」同胞の悲惨な生活がわずかな改善の可能性もないまま現在進行中である以上、虚構はとことん暴かれなければならない。 「実態の隠蔽非惨の主因」
菊池嘉晃著『北朝鮮帰国事業』は、「北朝鮮の戦略と連動した朝鮮総連の運動、在日一世らに潜在していた『帰国願望』と、日本側の『厄介払い願望』とが奇妙な共鳴を見せ」ていたことをたびたび指摘つつも、実質的には北による「壮大な拉致」であり、それを可能にしたのは総連を通じた「宣伝・勧誘・説得」だったと結論づける。
この論旨は一般化されているようでありながら、要因や責任を相対化する言説も少なくない。筆者は「『悲劇』を生んだ直接的な要因は、第一に北朝鮮国内の人権抑圧体制、第二に帰国意思形成に決定的な影響を与えた宣伝と情報統制(北朝鮮の実態隠蔽)」だったとして、「この二大要因に目を向けず(中略)『均等』な責任があるかのように主張する論者がいるならば、それは意図的に問題の核心から目をそむけているとしか思えない」と断じている。
日本・北韓・韓国・ソ連・米国・赤十字国際委員会(スイス)はもちろん、総連やその前身である民戦(在日朝鮮民主主義戦線)の関連資料を精査し、多くの脱北者や元総連活動家らの証言を補強材料に、深層に分け入っていて強い説得力がある。
「帰国」運動の原点を著者は、6・25韓国戦争当時、米軍の韓国支援を阻止する運動を展開し、北との実質的な連携、心理的な絆を深めた民戦が53年8月、全国の代表60人以上と技術者からなる祖国訪問団の北への派遣と、祖国復興資金1億円を募金することを決定、54年2月に帰国希望者への援助を日本政府に訴えたことに求めた。
休戦とともに民戦系の技術者や活動家の一部には、北の復興・建設に参加したいとの帰国願望が顕在化したのである。その後しばらくは他に、大村収容所で強制退去を恐れる同胞たちの一部、その他特殊事情を持つ同胞に限られていた。これが雪ダルマ式に膨らまされていく。
《広がる自発的な帰国熱望》という操作、帰国希望者数の水増し報告、人道を前面に立てながら日本側の「厄介払い願望」に擦り寄る世論喚起という段階を経て、総連は58年9月、「悲惨な境遇に苦しむ在日朝鮮人が地上の楽園へと変わりつつある祖国に1日でも早く帰り、祖国の温かい懐の中で幸福な生活を営もうという希望に立ちあがっている」と声明するに至る。総連はこの頃から、「地上の楽園」という賛辞を北韓の代名詞のように使い始めた。
南の悲惨さを強調しつつ、ビルが立ち並ぶ平壌、大型工場で生き生きと働く労働者と家族、祖国で幸福に暮らす帰国者など、「発展する祖国」のスライドや記録映画は、テレビが普及していなかった時代、効果は大きかった。
60年3月の総連中央委の報告では、スライド上映は1万3000回、延べ33万人余を動員、記録映画上映会は1423回、延べ51万5000人余を動員したと誇っている。先発の「帰国」同胞が伝え始めていた否定的情報は打ち消され、北への幻想は残り続けた。
総連は第3者機関による帰国意思確認の骨抜き、日本側の早期打ち切り方針の切り崩し、帰国申請者減少後の狡猾かつ強制的な帰国動員と続く。61年初頭から、総連は学生の集団帰国、幹部家族の帰国推進を決め、5万人を目標に全国的な帰国者獲得運動を展開している。同著はこうした過程を克明にたどった。 日本を対韓国工作の基地に北送運動は、「日朝韓にまたがる離散家族」を生み出したほかにも、総連組織を強化・拡大する一方、「帰国」船で北の指令が直接かつ綿密に届くようになり、結成初期には一定の自主性があった総連の北従属化が進んだこと、同時に、北工作員が在日に浸透し、日本が対南革命戦略の拠点となったことも指摘する。そしてこう結んだ。
「帰国事業で作られた日朝間のパイプは日朝貿易を進展させた。工作員や総連系(時には日本人)技術者・商社員を通じて、日本から最新の機械・資材・資産、それに関する情報が流れ、技術移転が進んだ。それには通常兵器のみならず、核・ミサイルなど大量破壊兵器への軍事転用可能なものも含まれていたとみられている。帰国船による膨大な『ヒト・モノ・カネ』の移動は、北の全体主義体制の強化と、日本や韓国に対する安全保障上の脅威の増大につながり、東アジアの冷戦構造にも影響を与えた」
■□真相に迫る書刊行 『北朝鮮帰国事業
「壮大な拉致」か「追放」か』(菊池嘉晃著、中公新書。800円+税)
菊池嘉晃〈きく
![](http://www.mindan.org/upload_files/files/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%B8%B0%E5%9B%BD%E4%BA%8B%E6%A5%AD.jpg)
ち・よしあき〉87年読売新聞社入社。記者として北韓・韓国の取材に携わる。94〜95年には成均館大学大学院に留学、00年に韓国語でまとめた「北朝鮮帰国事業」に関する論文で修士号を取得。論文に「北朝鮮帰還事業の爪痕
前編・後編」(『中央公論』06年11月・12月号)、「北朝鮮帰還事業『前史』の再検討‐在日コリアンの帰国運動と北朝鮮の戦略を中心に」(『現代韓国朝鮮研究』第8号、08年)など。現在、読売新聞松本支局長。
■□<投稿>帰国者への送金「保険付書状」
田秋子(70)東京都・主婦
二度死なせてはならぬ デノミ混乱底ない苦悩
北朝鮮のデノミのニュースに度肝を抜かれました。抜き打ちで断行、しかも新貨との交換は限度10万ウォンで、それ以上は事実上の没収というのだからすさまじく、あの国の民の不幸には底がないと思いました。
わが家の身内にも帰国者がいます。62年に義弟2人が帰国したのです。
家族訪問として私が初めて北に行った1995年は、全国的に配給制度が崩れた年でした。飢餓に脅えている義弟や他の帰国者たちの顔を見た私は、それまでは折に触れてだった仕送りを年1回の定期に替えました。万景峰号が動いているうちは「人便」として、訪問者に頼んだりしましたが、動かなくなってからは国際郵便の「保険付書状」で送金しています。
保険付書状というのは、損害賠償のついた手紙という意味で、海外に手紙と一緒に現金を送ることができる制度です。窓口は国際郵便を扱う日本郵便です。これには北朝鮮も加盟しているので、公的な方法として送金ができます。
住所名前を書いた封筒と手紙、現金と印鑑を持って日本郵便の窓口に申し出ればいいのです。北全土のどこにも可能ですが、ただし経済制裁下の現在は個人宛に限ります。しかも、「核関連計画等に貢献し得る活動に寄与する目的で行われている現金の郵送については、外国為替令に基づく財務大臣の許可を受ける義務」が課されたために、「送金目的及び用途」について、詳細に記述する必要があります。
手数料は、たとえば5万円なら650円、15万円では900円です。いずれも保証料を含んでいます。日本から北に向かう送金の封書(保険付書状)は、ピョンヤンの郵便局が一括して取り扱うようです。ここから通知書が名宛人に発送されます。
ピョンヤンの郵便局では受け取りの手紙をその場で書くように勧め、封筒や便せんが備え付けてあるそうです。真白に光る便箋で礼状が届きました。送金した日本円はウォンに換金されることなくそのまま受け取れます。ただし受取手数料として総額の5%が差し引かれるということです。
今年の義弟たちへの送金は遅れてしまい、彼らに届くのは12月の半ばを過ぎるかもしれません。それが気になっていましたが、デノミで、遅れたことが逆に幸いだったと気づきました。早く着けば、一部はウォンに替えてしまい今回のデノミ切りにあったでしょう。
公的に安全に送金できるこの「保険付書状」が広く知られていないのが残念です。日本郵便(昔の郵便局)の社員にも、情報が行き渡っていませんし、朝鮮総連もこの存在を同胞に知らせたくないようです。
最近、都内の知人が初めて保険付書状の送金を試みたときのこと、応対した局員は「経済制裁で北には送金も小包も送れなくなった」と、けんもほろろだったとか。
私はその局の担当者に電話をし、御社のホームページをみて下さいと言いました。北朝鮮宛は限度額51万円余り、とちゃんと載っているのです。
先月、山口県で摘発された北朝鮮向けの「地下銀行」事件にも驚きました。数年にわたり数10人から依頼され430万円を送金したという容疑に、小さな金額なのになぜそんなことを、と解せない気持ちです。
民主化まで生き延びよ
帰国者への仕送りには色々な見方があるでしょう。ですが私は、息が絶えるまで続けるつもりです。なぜなら、北に行ったことで一度死んだ親族を、二度死なせてはならない、民主化されるまで何とか生き延びさせたい、と思っているからです。
(2009.12.9 民団新聞)