伊賀市では2006年に、外国人住民協議会が設立されました。市の生活課職員が参席し、日本人の委員と外国人の委員で構成されています。私は第一回の委員を務めていました。会長は民団上野支部団長(当時)で、記憶では他に2人の韓国人委員がいました。
人口10万人足らずの市に、約5000人の外国人が住んでいます。委員には、ブラジル他南米や帰化した中国人、タイ、フイリピン人などがいます。
ニューカマーの彼らは、日本語はまだ不自由な部分があり、感情的な場面では国々の言語になったりもしました。
在日主流は南米?
2010年の調査では、1位ブラジル他南米2600余人、2位中国1000余人、3位韓国人380余人です。2011年では、1位はブラジル3200余人、2位中国850余人、3位はペルー、4位は韓国346人となっています。
全国の国別外国人住民数はどうでしょうか。1999年度外国人住民総数約122万人の内訳は①韓国69万②中国17万人③ブラジル他南米12万人です。2010年度では①は56万人②は69万人③は23万人となっています。
初議題はゴミ出し情報に終始する共生はまずこんなところから
無年金賃金安鬱気分日系人の主張がつづく
在日には韓日間に横たわる近現代史の経緯があって、在日外国人といえば嘗ては、韓国人を意味するものでした。それが全国的にも地方においても、韓国人が減少していることが分かります。
病院でよく見かけますが、スーパーでは毎日のように南米の人を見かけます。殆ど家族連れで、値引き札をちゃんと見て買っています。中国人は若い男女が揃って、自転車でお喋りしながらやって来ますね。売り出しの時には、お仲間の分もがっちり手中にしてカゴ一杯ですよ。
近くには小中学校があって、そこでも日系の子供達を多く見かけます。皆とても可愛らしくて、見知らぬ私に声を掛けたり、挨拶などするんです。人懐こくてオープンなところが、地元の子供とは少し違いますね。
以前は日本に来たばかりの子供が多かったのですが、この頃は日本生まれが目立ち、日本語に伊賀弁? も勿論、上手くポルトガル語も話せます。校内の案内は、日本語とポルトガル語が併記されているんです。
そろそろバトンを
天理大には伊賀市の小学校の先生が、ポルトガル語の習得に来ていました。年々に増える日系の子供達の教育を円滑にするためで、学校から出向のような形です。
定住が始まり増加する多国籍の住民ですが、前述のように会議では、何かと韓国人が主導することになります。生活全般においても日本語が駆使でき、存在意義と役割を十分にもつマイノリティーです。
2012年は、次世代へバトンを渡すべく時期になっているように思います。外登法や再入国許可などから、解放される転換の年だからです。
私の父は製綿工場を営んでいましたが、戦後間もなく民団上野支部を創団し、初代団長になっています。母は婦人会会長を務めていました。物資も資金もない時代で、我が家がにわか事務所でした。絶えず人が出入りして、とても血気盛んでした。過酷な時代にあの活気が何故、生み出せたのかを思うとき、次世代に対する成熟世代の姿勢があるように思えます。
父ははの大陸仕立てのDNA空に刺青す日本育ち
冬虹をあおぐゆうぐれ額ひえてふわりにおうね風の大陸
擦れ違いざまひかりの鼓動にふりむけば母体をくるむ未知の極光
一世は、およそは鬼籍に入りました。二世は一世に育てられ、時代を垣間見た最後の世代で、次代に伝え得るものをもっていて、同時に高齢化が進んでもいます。青年は日本人との婚姻が増加し、少子化へ進んでいます。成年、青年層が中心に動くために先ず、こうした現状を把握する必要があります。
青年は一、二世のような苦悩を知りません。何も考えずとも日々の暮らしが営め、ともすれば日本の社会に抵抗なく紛れ易いのです。日本での立ち位置を直視する眼を養うためには、理論より形が見える普遍的なものが必要です。
「MINDAN文化賞」などはいい例ですね。世代を超えて文芸や文化を携えた老若男女が、集結出来る場は滅多に見られません。表彰式会場はまるで、同窓会のような親しみがあります。このような場を小規模でも地域に保てるなら成年、青少年層との対話が生まれ、次世代へ繋げる希望ができるでしょう。
未来へ歩め青少年
韓流ブームの定着で、テレビでも日常的に韓国料理が登場します。私もよく観るのですが、日本人の料理人が、意外な韓国レシピを開発して驚いたりします。その逆もありますね。一例ですが韓日の料理講習会などで共々参画すれば、食を通じて親近感が生まれます。文化から身近に直面する問題、生き方の方向に発信が出来れば、日本の社会に存在感をアピール出来て、共生の一端にも与します。
アイディンティティーは身近な生活レベルから、実現可能な分野から踏み出すことで育成されます。そうして本国との建設的な繋がりの必要性も自覚できるでしょう。未来に向かって見え得るものへ歩み出す2012年は、そんな青少年の年になってほしいのです。
キムチ漬けて夕やける空身の洞に充ちる発酵を未来とおもう
冬薔薇くれないふかき意思をもつ明日に向かうあまたの蕊は
空をゆく鳥の翼にひとすじの願い託せば架橋あらわる
李正子(歌人)
(2012.1.1 民団新聞)