韓国の映画界では、秋夕の前に大作が公開されることが多いが、今回はイ・ビョンホンが朝鮮王朝15代王・光海君に扮する映画「光海、王になった男」が話題になっている。
スチール写真を見たかぎりでは、朝鮮王朝の王をこれほどかっこよく演じた俳優はこれまでいなかったと思えるほどだ。もし大ヒットすれば、光海君のイメージが現代韓国でガラリと変わってくるかもしれない。
もともと光海君といえば、クーデターによって王位を追われているだけに、暴君という印象が強かった。
光海君に代わって王となった仁祖やその側近が、自分たちのクーデターを正当化するために、意図的に光海君の悪評をふりまいた部分もあったことだろう。実際、光海君の言動を細かく記した朝鮮王朝実録で、彼は散々な書かれ方をしている。それが、光海君の人物像を決定づけたことは間違いない。
しかし、後世になって「光海君は暴君ではなかった。むしろ、政治的な成果が多い」という擁護論も出てくるようになった。
何よりも彼は、豊臣軍の攻撃によって荒廃した国土の復興に尽くし、王宮の再建や納税制度の改善などでも手腕を発揮している。暴君どころか、名君に列せられてもおかしくないほどの業績があったとされている。
ただし、王位継承の過程で実兄や異母弟を死に至らしめた点は弁解の余地がない。結果的に、多くの人の恨みを買うことになった。致命傷になったのは、義理の母である仁穆王后を冷遇したことだ。彼女の大妃(王の母)という身分を奪ったうえで幽閉してしまったが、それは〞孝〟を最高の徳目と考える儒教社会ではあるまじきことだった。
この非道が、仁祖たちが起こしたクーデターに大義名分を与えたのである。
光海君に我が子を殺されてしまった仁穆王后は、クーデター成功後、仁祖に対して執拗に〞光海君の殺害〟を命令した。朝鮮王朝実録によると、仁穆王后はこう言ったという。 「(光海君は)同じ空の下で一緒にいられない仇。私が直接、その首を切り落としたい」
「私のために復讐してくれるのが孝行というものではないのか」 「逆魁(光海君のこと)が母子の道理を破ったので、私は恨みを晴らさなければならない。これだけは、絶対に譲ることができないのだ」
仁穆王后は激烈な言葉を仁祖に何度もぶつけたが、仁祖は最後まで仁穆王后の言葉に従わなかった。先王を殺したりすれば、自分が後世で暴君扱いされることが目に見えていたからである。
結局、光海君は江華島に流され、後には済州島にまで送られた。さいはての地に流されたときはあまりのショックで慟哭したそうだが、光海君は気を取り直して、済州島で66歳まで生きた。世を去ったのは1641年のことで、廃位となってから18年後だった。
同じく王宮を追われた10代王・燕山君は廃位となって2か月後に世を去っている。それに比べると、光海君は十分に〞その後〟を生きたのである。
康煕奉(作家)
(2012.9.5 民団新聞)