<主思派>再生産は不能に
■□
学生運動基盤ほぼ喪失
一時は勢力10万とも
《従北主義》・《従北勢力》という用語は、北韓工作機関の指令を受けて動いた秘密結社《一心会》事件をきっかけとした民主労働党の内紛で、《PD派》が最初に口にして以来、流布されたものだ。現在進行中の統合進歩党の内紛で再び、その存在がクローズアップされている。
この《従北勢力》の中核こそ、北韓の<南朝鮮革命>路線=<民族解放民衆民主主義革命論(NLPDR)>を核心とする主体思想を指導理念に、北韓を現実的な<民主基地>として<南朝鮮革命>を遂行しようとする《主思派》である。
現存勢力はどの程度なのか。
<主思派の代父>と呼ばれ、《民革党(民族民主革命党)》(92年結成、97年解体決議、99年摘発)の総責であった金永煥は、《主思派》の盛衰についてこう語った(「朝鮮日報」7月31日付から要約)。
韓総連の凋落
「1980年代の末頃は、核心と周辺の同調者を合わせ、主思派を10万人ほどと見た。だが、99年末には1万人を割った。金正日に好感を持つとか北韓に友好的な発言をする親北は、(金大中・盧武鉉政府を経て)増えたかも知れない。だが、そのような態度と民革党残留派のように、頭からつま先まで従北思想で武装したものとは大変な差がある。そうした骨髄主思派はいま、1000人にもならないだろう」
そして、「学生運動の基盤はほとんど崩壊し、主思派の再生産構造は瓦解している」と指摘した。 急進的な学生運動団体であった<韓総連(韓国大学総学生会連合)>は、93年4月に結成された。<全大協(全国大学生代表者協議会=87年8月結成)>内部から、これまでのような政治闘争一辺倒では変容する学生たちの要求に応えられないとの自己批判が広がり、<全大協>を発展的に解消して<韓総連>を発足させたのだ。高麗大での出帆式には8万余を動員している。
80年代の民主化の進展は、政治運動より就職活動に熱心な学生を増やした。<全大協>から<韓総連>への衣替えは、ノンポリ化する一般学生をも広範に網羅するためだった。しかし、主導勢力はそのまま、《主思派》系列が優勢を維持した。
<韓総連>の路線対立は早くも、95年前後から表面化する。金泳三の文民政府に対する基本的な立場はどうあるべきか、そしてその闘争方式は?さらには統一運動の大衆化をどう進めていくのか、が主たる争点だった。
《NL派》=《主思派》は、文民政府と全面的に対決し、暴力闘争も辞さないと煽った。統一運動についても、《汎民連(祖国統一汎民族連合)》を中心に、南北統一連帯をいっそう強化する次元で展開すべきだと主張した。
《汎民連》は北・南・海外3つの本部で構成され、北側本部は対南工作機関である統一戦線部をその実体としている。南側と海外の本部は、北側の指導を受ける《従北勢力》の固まりだ。大法院は南側本部を利敵団体と規定している(連載6=7月25日付既述)。
不信と虚脱感
これに対し、<韓総連>そのものの改革を要求する京畿仁川地区、全羅北道地区、ソウル地区一部の大学が結集した<革新系列>は、金泳三の文民政府は軍事政権ではないとして暴力闘争を否定、統一運動も各地域で大衆とともに展開すべきだとの立場を堅持した。
両者の葛藤は96年8月の延世大学籠城事態で爆発する。《主思派》が主導する<韓総連>は、祖国統一汎民族青年学生連合主催の統一大祝典が開催不能となると、北韓代表を招くべく平壌に派遣した学生2人を歓迎する形式で統一大祝典を強行した。
これを解散させようとした機動隊に対抗して構内に立てこもったあげく、約4300人の学生が連行され、444人が拘束・起訴された(いずれも学生運動史上最大の人数)。110人が有罪となり、そのうちの51人には懲役8月から3年の実刑判決が下された。
《汎民連》主導の、つまり《従北主義》による統一運動や、文民政府打倒運動が見せた時代錯誤は、<革新系列>の学生たちを離脱させるだけでなく、一般市民に失望感を広げた。この闘争で鍛えられるはずだった新入生たちは、不信と虚脱感を抱いて運動圏から遠ざかった。
そして、来るものが来たと言うべきか。漢陽大で開かれた<韓総連>の97年出帆式で、<革新系列>から送り込まれたスパイと疑われた学生が尋問・殴打され、死亡したのだ。<韓総連>がリンチ殺人を犯し、なおかつ事件を隠蔽しようとしたことが明らかにされると、市民から厳しく糾弾され、<韓総連>は決定的に孤立していく。
《主思派》の再生産工場が操業不能になり、活動家を供給できなくなった意味は大きい。
■□
あなどれぬ<民革党>残滓
過半以上が潜伏か?…<理念>破綻しても結束?
実像知り動揺
<韓総連>の没落はしかし、路線闘争や延世大事態、リンチ殺人事件だけが原因ではない。
《主思派》に率いられた学生運動圏では、東欧社会主義諸国の崩壊後も生き残った主体思想の北韓を敬い、実体社会主義の最後の砦として持ちこたえて欲しいとの心情が横溢していた。これが当時の《主思派》運動を支える動力であった。
しかし、対南革命基地であり、統一主体勢力である北韓が実は、数百万人を餓死させる悲劇の地に過ぎない。しかも、300万人を餓死から救える血のような金8億9000万㌦を金日成の墓地建設などに注ぐ残忍さを持つ。90年代中盤から、こうした北韓の赤裸々な実像が明らかになった。これが動力に決定的なダメージをもたらしたのだ。
中心的なリーダーといえどもその例外ではない。<韓総連>の祖国統一委員会政策室長だった崔弘在は93年、「(自分と同様に)金日成に対する尊敬と信頼が非常に強かった」ある同志を、北韓工作機関との接線を維持するためベルリンに送った。大量餓死のニュースが伝わった当時を、彼はこう振り返った(「朝鮮日報」6月8日付)。
「私は脱北者の言うことは信じなかった。体制に批判的な脱北者はもともと信頼に値しないと考えていたからだ。それで、ベルリン(の同志)に訊ねた。『人民は飢え死にしているのか』。『そうだ』。『労働党の幹部はどうか』。『裕福で、元気に暮らしている』。人民のための党幹部であれば、同じように飢えに苦しんでいると思っていた」
崔弘在は95年、国家保安法違反で懲役2年6月、執行猶予3年を宣告された。裁判で彼は、「自分は祖国統一を願う学生に過ぎない。そのためには北韓を知る必要があり、金日成と主体思想に関心があっただけ」と主張した。これは《主思派》学生の誰もが用いる方便だとし、こう続けた。
「私は大韓民国の体制を転覆させ、北韓と同じ社会をつくろうとしていた。私だけでなく、主思派の学生たちが抱く共通の願いだった高麗連邦共和国を建設しようとした」
地に落ちた革命モデル。《主思派》学生の間に、恥じ入る思い、自己嫌悪が広がって当然だろう。崔弘在自身は98年8月、<転向>を表明した。こうした覚醒の一つひとつが大きな流れとなり、《主思派》の苗床とも言えた学生運動圏は衰退し、活動力を供給する機能をほぼ失った。
では、<韓総連>世代の先輩格である386世代(90年代に30歳代となり、80年代に学生運動を行った60年代生まれ)で、《主思派》が右肩上がりの時代に鍛えられた活動家たちはどうなのか。
僅か100人
《主思派》のなかの《主思派》と言われ、骨髄分子が集結した《民革党》の全容は公式には明らかにされていない。しかし、《民革党》関係者や左派運動圏の消息筋の間で、《民革党》党員は100人規模だったとするのが定説だ。
「党員は私を含めて全国で100人に過ぎなかった。これが運動圏の要路を掌握し、影響力を行使したのだ」(現在、次官級官僚である《民革党》出身者の証言。月刊「新東亜」5月号)。
「党員は100人だった。反帝青年同盟を含む傘下18の地下組織の構成員は400人程度。合わせて500人ほどの核心を軸に、大衆団体で重要な役割を果たす活動家1000人余が外郭組織員として統括されていた」(月刊「NKビジョン」7月号。連載「従北主義を解剖する」)。
「民革党の影響下にあった者は少なくとも数千人に達する。党員は100人でも、その下の多数の合法団体ごとに細胞があった」(ある《NL派》出身者の話。「新東亜」5月号)。
地下党の多くは、合法の衣装をまとった中間団体や下部団体を置き、活動の手足とするだけでなく、煙幕にしてきた。裁判になっても、「下部団体には関与したが、本体についてはその存在自体を知らない」と強弁することで、罪状を軽くするだけでなく、本体組織を守り抜けるからだ。
《民革党》の摘発は偶発的だった。北韓の半潜水艇が撃沈され、関連資料がたまたま発見されたことによる(連載7=8月15日付既述)。当局がまったく察知できなかったほど秘密保持に優れていたのだ。92年3月の結成から7年余の間、《民革党》が大小の地区単位の組織だけでなく、事業別に各種の中間・下部団体を多数擁したことは間違いない。
地下で連動も
《民革党》の党員100人のうち、<転向>したのは25人との見解がある(《NL派》出身者。「新東亜」5月号)。結成を主導し一貫して総責にありながら解体を決議した金永煥。彼の呼びかけで早期に出頭した15人。その後、自首もしくは逮捕後に<転向>したメンバーもいた(非公開の場合も多い)。
《民革党》の序列5位だった李石基(4月の第19代国会議員選挙で統合進歩党の比例代表候補として当選)のように、いわゆる<非転向>組がその存在を公然化させたケースは極めて少ない。序列2位だった河永沃をはじめ、党員の過半以上が潜ったままということになる。しかも、<潜伏党員>にはかなりの数の活動家が連動していると見るべきだろう。
■□
液状化地盤の386世代
反米・親北意識 今なお…各界に根張り利益集団化
《主思派》の実勢力や影響力を考えるうえで欠かせない要素の筆頭はやはり、少数とはいえ強力に組織された《民革党》の残余勢力である。進歩新党の党員が、《民革党》再建派を中心に《主思派》の残滓が形成した全国ネット《京畿東部連合》について、「自分が嫌い、排斥する組織ではあるが、その活動ぶりは尊敬に値する。進歩新党が勝てるわけがない」(連載7=8月15日付)と語ったほどだ。
しかし、影響力の面で見逃せない要素は《主思派》学生運動に没頭した386世代の気質であり、国と社会に占める足場の強さであろう。《民革党》残余勢力を震源とすれば、場合によってはその振動をより大きく増幅させ、国の土台を液状化させかねない存在だからだ。
北批判しつつ
民主労働党の核心党員2人が関与した《一心会》について「転向386世代」の8人が「一心会スパイ事件は、北韓とつながる主思派勢力が依然として、韓国社会に健在であることを示す」との声明を発表し、記者会見で「今でも主思派の哲学を盛り込んだメモリーチップを脳の片隅にしまったまま、青瓦台(大統領府)、政府、国会、市民団体などの権力中枢に進出し、活動している者が相当数だ」と指摘した(中央日報06年11月3日付)。
386世代の多くが50歳前後となり、国や社会の各領域に根を下ろし、それなりに重みのある地位を占めている。国会議員や公安機関を含む高級公務員、判事・弁護士の法曹界、映画や舞台など文化芸能界、新聞・テレビなど言論機関、市民・労働運動の団体など領域は幅広い。
《主思派》や北韓に盲従する386世代は、今では少数であり、むしろ、北韓の3代世襲や核兵器開発、ミサイル発射などには批判的でさえあるという。だが、学生時代に培った反米・親北の左派的情緒にはなお強いものがあると見るのが大勢だ。こうした見解は特に、実情をよく知る運動圏出身者に目立つ。
「北韓情報は誇張・歪曲されている。飢餓が発生するほど経済的に苦しく、人権が蹂躙されているとしても、米帝国主義と闘うにはやむを得ない選択と言える」。かなりの386世代がこうした意識から抜け切れずにいるという。
《主思派》学生運動の出身者は、理念的な集団意識は薄まっても、現実的な利害関係勢力に成長した。金大中・盧武鉉両政府の10年間に、強力な政治集団となった。盧武鉉時代には大統領府に、運動圏の386世代が大挙進出したことはよく知られている。
すがる既得権
前述の「転向386世代」の記者会見で、「フリーゾーンニュース」現代表の姜吉模はこう明らかにした。「かつての同志のなかには、『考え方は変わったが、運動圏の経歴と人脈で出世した以上、立場は変えられない』と告白する者がいる。主思派の思想が職業になった者も少なくない」
金永煥もこう指摘した。「(主思派運動経験者にとって)北韓の真相が自分の信じてきた姿と異なることを認めるのは、自己崩壊につながりかねない。それに加えて、既得権に対する執着もある。自分の社会的な地位や影響力がそこ(主思派運動)から生まれたものだけに、それを過ちだったと認めた瞬間、既得権をすべて失うことになる」
(文中・敬称略)
(2012.9.5 民団新聞)