新刊として『もっと知りたい韓国時代劇/王女の男』(実業之日本社発行、税込800円)を編著で出した。現在、NHK・BSプレミアムで日曜日午後9時から放送されている「王女の男」について、その制作過程、出演俳優、時代背景、ロケ地などを紹介した本である。特に、時代背景では死六 臣について述べた。
この死六臣とは、甥をおどして王座を強奪した7代王・世祖に対抗して王位奪還を計画した6人の高官をさしている。計画が失敗して全員が刑死・獄死したが、忠義に殉じた志は後世で称賛を浴びた。まさに〞忠臣の鑑〟であった。
死六臣の中心人物となったのは成三問と朴彭年の2人で、『もっと知りたい韓国時代劇/王女の男』でも詳しく取り上げている。
成三問は、聖君とも称された4代王・世宗に可愛がられた高官で、世宗がハングルを創製する過程でも大きく貢献している。
これほどの逸材をむざむざと殺すのが惜しいと考えたのか、世祖は「余を王と認めれば罪を許そう」と言って成三問を懐柔しようとしたが、彼は最後まで世祖の王位を否定し続けた。
怒った世祖が「余の禄で生活しているくせに」と成三問を罵倒したが、彼は「禄には手をつけていません」と答えた。実際に調べてみると、成三問は非常に貧しい生活をしていたにもかかわらず、世祖からもらった禄にはまったく手をつけていなかった。
成三問への拷問はひどくなる一方で、彼は焼いた鉄の棒をからだに押しつけられたが、むしろ「鉄を焼き直してこい」と平然と言い放って信念を変えなかった。
朴彭年は、〞秀才の中の秀才〟と評された男で、学問と書に優れていた。彼は世祖の前に引っ張りだされたとき、世祖から「心を入れ替えて余に尽くすなら命を助けてやろう」ともちかけられた。
しかし、朴彭年は心変わりしない証拠として、世祖のことを「ナウリ」と呼んだ。これは「ダンナさん」に相当する呼び方であり、王に対する強烈な侮辱だった。
世祖は「そちは余の臣下ではないか」と朴彭年を問い詰めたが、彼は「私は先王の臣下であって、ナウリの臣下を称したことは一度もありません」と答えた。
そこで、世祖は朴彭年が記した書状を徹底的に調べたのだが、確かに、朴彭年は呼称に臣下を用いず官職名だけを書いていた。どうしても〞臣下〟と書かざるをえないときは、〞臣〟の代わりとして〞巨〟という漢字を使っていた。そこに朴彭年の徹底した反骨精神があらわれている。
死六臣の場合、自分だけではなく、父、兄弟、息子も処刑され、家族の女性たちはこぞって奴婢にされた。一族が滅ぼされるのがわかっていても、彼らは最後まで固い意志を守り通したのだ。
朝鮮王朝の歴史の中でも特に志が高かった死六臣。彼らのことをストーリーの中に巧みに取り入れているのが「王女の男」である。この時代劇の大ヒットは、死六臣の存在に改めて光を当てた。
康煕奉(作家)
(2012.9.19 民団新聞)