再検証すべき南北の建国道程
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西ドイツの場合は?
「西側の砦」に一体感
韓半島の南北関係とドイツの東西関係、それぞれにおける韓国と西ドイツ、北韓と東ドイツの状況は似かよっているように見えて、本質的には大きな違いがあった。韓半島南北よりはるかに困難とされた東西ドイツの統一(90年10月)が先行したのは、その「本質的な違い」による。
韓半島南北の問題を統一志向から考えるうえで、東西ドイツの関係と照らし合わせる意味は大きい。類似性と異質性を確認すれば、北韓独裁政権と《従北勢力》の異様性が自ずと際立ってくるからだ。まず、西ドイツと韓国の建国のプロセスを概括しよう。
《従北》や<親北・反米>性向の勢力は、北韓が抗日独立運動を継承する統一勢力がつくった<自主の国>=<善の国>であるのに対し、韓国は米国と親日・保守の分断勢力がつくった<隷属の国>=<悪の国>という虚構を流布してきた。
ドイツの場合、西にとって東は国際法上存在しない旧ドイツのソ連占領地域にすぎず、東から見る西はナチスの後継者である復讐主義者の集団であった(『戦後ドイツ‐その知的歴史』三島憲一著・岩波新書)。60年代後半、西ドイツの若者は「30歳以上の者は信用するな」とのスローガンを掲げ、ナチスと関わりのある既成世代との対決を鮮明にする。
西ドイツと韓国の建国プロセスには、分断国家ゆえの論難がなにかとつきまとった。同じく米・ソ両軍が進駐(西ドイツには英・仏軍も)し、その管轄分界線が国土分断ラインとなった。建国は韓国が48年8月、北韓が同9月。西ドイツが49年5月で東ドイツが同10月。形式上の政府樹立はともに西側が一歩先んじた。
ドイツ東西の亀裂が深まったのは、米・英・仏が占領政策を効率化するトライゾーンを形成し、48年6月にハイパーインフレーションを収束すべく統一通貨を発行してからだ。ソ連も3日後、かねての計画通り新通貨を発行、西ベルリン(ベルリンは東独地域内にあるいわば飛び地)を経済封鎖した。
何が分断のきっかけかはさほど重要ではないほど、米・ソを軸とする東西両陣営の角逐はすでに抜き差しならない段階にあった。
ソ連は自らがナチスドイツから解放、占領した地域に次々と共産主義政権を打ち立てた。西側諸国の危機意識は極めて強く、西ドイツの建国は自ずと、共産主義の西進を阻止する砦の意味を持った。それは、ソ連による西ベルリンの経済封鎖に対する憤激と、その窮地を救うべく11カ月間にわたって展開された大空輸作戦によって、西側諸国・市民の一体感が高揚するなかで迎えられたと言っていい。
統一国家としての主権回復は、二度も世界大戦を引き起こし、ナチスまで生み出したドイツ民族主義への贖罪から、西ドイツ市民も強く望むには至っていない。米・英・仏など西側諸国もソ連も、強大化しやすい統一ドイツの出現を許すことは断じてなかった。
西ドイツは、「東ドイツとの統一後に憲法を制定する」との立場から憲法を持たず、それを代替する基本法を定めたことで分かるように、将来にわたって統一を放棄したのではない。むしろ強い意志を秘め、分断を粛々と受け入れたのである。
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統治機構確立で先行した北
南の左右激突煽り…金九ら協商派も巧みに利用
ドイツが東西対立の第1戦線だったとすれば、韓半島は第2戦線の位置づけだったと言えよう。米国は少なくとも、西ドイツほどには韓国に精力を注いでいない。
韓半島の38度線以北では45年8月25日、平壌に進駐していたソ連軍が司令部を設置すると即日、南北をつなぐ鉄道、電話回線を遮断し、38度線を封鎖して人と物資の往来を禁じた。
同時に、「建国準備委員会平安南道委員会」を解体、「平安南道人民政治委員会」に改編した。建国準備委は、韓半島全域で影響力のあった人物の一人、中道左派の呂運亨が組織した。どちらかと言えば、左派的な傾向を帯びたこの活動ですら強権によって停止させられたのである。
同じ頃、以北でもっとも信望のあった中道右派の晩植は45年11月、民族独立・南北統一・民主主義確立を3大綱領とする朝鮮民主党を結成、党勢を急拡大させていた。反ソ・反共の流血事態をともなう決起・示威が相次ぐなど、統一・独立を願う民族主義・民主主義勢力の強さは以南の比ではなかった。ソ連軍は戦車、戦闘機まで動員し、無差別射撃でこれを鎮圧している。
民族派を弾圧
民心を引きつけた朝鮮民主党の晩植でさえ46年1月、ソ連当局の恫喝にもかかわらず韓半島を信託統治するとしたモスクワ決定(45年12月)に反対を表明したことで、ソ連軍に逮捕・軟禁されたまま戻らぬ人となっている。
一方、金日成は45年10月、新設された「朝鮮共産党北朝鮮分局」の責任者として登場、ソ連当局は「金日成歓迎平壌市民大会」をお膳立てした。46年2月に組織された「北朝鮮臨時人民委員会」の委員長に就任した金日成は3月、北朝鮮土地改革法令を、8月には産業国有化も公布する。
ここで重要なのは、モスクワ決定に基づいて韓半島問題を解決するための米ソ共同委員会の第1次会議(3月20日開催)が始まる前に、以北ではすでに単独の統治機構が強権的に形成され、今日の北韓の骨格をなす主要法律が施行されていた事実である。
ちなみに、金日成総合大学は設立準備委員会が46年5月、設立が同10月だった。「北朝鮮人民委員会」(47年2月改編)は、解放後初の最高教育機関に、登場してまだ7カ月に過ぎない金日成の名を冠したのだ。すでに、国家としての理念と価値観が整っていた証である。
社会主義体制では国家の上層に一党独裁党が君臨する。その独裁党がいち早く、以北全域を完全支配していた。
李承晩が46年6月、全羅北道の井邑で南だけの単独政府樹立を提唱する談話(井邑発言)を発表したのは、以南の責任指導者としてあまりに当然だった。むしろ、以北における一連の既成事実化を追認したに過ぎず、遅きに失したと言わねばならない。
以南で米軍当局が左派に政治的圧力を加え始めるのは、46年5月の「朝鮮精版社偽造紙幣事件」(朝鮮共産党が党費を調達する目的で多額の偽造紙幣をつくり、市中に流通させた)からだ。本格化するのは同年の「9月ゼネスト」を前にして発令した共産党幹部の逮捕命令からである。
以南の政治的な環境はそれまで、以北における民族・民主勢力と違って、左派が十分に活動できる余地があった。その後も、46年12月に朝鮮共産党を主体に結成され、49年6月には北朝鮮労働党(46年8月結成)と合流して朝鮮労働党の一翼を担う<南労党(南朝鮮労働党)>など左派勢力が猖獗(しょうけつ)を極めていた。
米ソ共同委員会が47年10月、第2次会談の決裂をもって終わると、韓半島問題は国連に上程される。国連総会は47年11月、全朝鮮での統一総選挙の実施を決議。これがソ連の反発によって流産すると48年2月、南だけの単独選挙を決議し、同5月10日のいわゆる「5・10単独選挙」に至る。
以南はこれで、いっそうの左右角逐にあえぎ、分解寸前の様相を呈した。一つは、<南労党>の主導する済州道4・3事態など悲惨な流血事態を含む苛烈な反対運動だ。4・3事態は選挙有権者登録期間(3月29〜4月9日)のさなかに起きた(麗水・順天事件はこれを鎮圧しようと出動準備中だった国防軍内部の反乱)。もう一つは、民族主義者による南北協商の動きである。
ソ連崩壊後に公表された文書「朝鮮関連問題に対するソ連共産党政治局決定」によれば、金九と金日成による南北協商(48年4月19〜23日)は、平壌駐屯のソ連軍司令部が建議して開かれた。急速度で進行していた北韓単独政権の樹立準備をカモフラージュする格好の演出だった。
革命基地着々
実は、金九も金日成が単独政権を放棄しないことは分かっていた。平壌行きに先立っては「南北協商が失敗すれば、単独選挙に反対しない」ことを言明し、金日成との会談決裂後は「南側の動きを言い分に、単独政府を樹立するとの北の態度もまた、民族分裂行為」と指摘している。しかし、金九は最後まで単独総選挙を拒否した。
生涯を独立運動に捧げ、大韓民国臨時政府の主席まで務めた金九が選挙に参加していれば、韓国建国は民族勢力の糾合によって、より求心力を高めたはずだ。少なくとも、韓国は反統一姿勢のつくった<悪の国>という、史実の歪曲がまかり通る余地は狭まったに違いない。
これに比べ、周到に準備のうえに韓国の動きを受けた形で建国した北韓は、全民衆の祝賀を装うことができた。しかし、それはあくまで、以北の反体制勢力がとっくに窒息させられていたからにほかならない。金日成は48年3月1日を期し、最後の組織的な抵抗勢力であった天道教徒1万余人を検挙し、相当数を虐殺している。
凶暴な加害者であったがゆえに、民族主義的な欲求を抑制し、分断を粛々と受け入れた西ドイツ。列強のせめぎ合いによって植民地に転落させられ、解放後もいつしか先鋭化していた東西対立によって分断を強いられた韓国。被害の連続だった弱小民族にあって、統一・独立を追求する民族主義が強かったのは当然であろう。
だが、金日成は以北を革命基地として韓半島全域を<解放>する路線を既定のものにしていた。南側の一部指導者が以北のこうした現実に厳しく対処せず、民族感情を先立たせ、結果的に利用されたことは建国前後史のいま一つの不幸と言わざるを得ない。
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「親日派清算」北では?
「建設」へ重用いとわず…金日成「疑心抱くのは誤り」
大韓民国は、全国民が祝賀するなかでの建国とは言い難い経過をたどった。第1に、以北における政治弾圧や相次いだ血の粛清がベールに包まれていたのに比べ、4・3事態の印象が際立たされたのは否定できない。
第2に、当時の共産主義は第2次大戦中から植民地支配や侵略に抗する理念となった勢いをそのままに、アジア・アフリカで民族の統一・独立への希求を支えていた。これに対し、西側先進諸国のほとんどは植民地支配国であり、民族解放闘争の対象であった。共産主義運動は国際連帯とプロパガンダで優位にあり、これも北韓に追い風となった。
第3に、米軍政は行政の円滑な遂行のために、やむを得ず旧親日派を含む保守親米派を重視した。抗日独立運動の立役者でありながら、初代大統領の李承晩はその土台に依拠せざるを得ず、親米派に衣替えした親日派政権と指弾される余地を残した。
では、親日派の清算問題で韓国を攻撃してきた北韓自身は、どう対処したのか。
北韓の科学百科事典総合出版社による歴史書「朝鮮全史」現代編は、「金日成同志は、過去に少し勉強をし、日帝機関に服務したからと言って、いつまでもそうしたインテリたちに疑心を抱き、遠ざける誤った傾向を批判しながら、(中略)彼らを新祖国建設の誇らしい途に就かせた」と記録している。
同書はまた、金日成が科学者、技術者、文化芸術人などインテリを人民政府機関、重要企業所や教育・文化・保健など各機関の主要ポストに配置したとも記し、「ブルジョア思想の根を抜き、(中略)任された革命任務を責任的に遂行した」とまで称賛した。
ソ連当局も経済関連の人材登用では実用的な態度をとり、日本人技術者と日本企業に従事した朝鮮人技術者を優遇した。北韓は政府樹立後も日本人技術者の帰国を許可せず、残留した日本人技術者は48年11月当時、868人と記録されている。高位技術者には閣僚級を上回る高額な報酬を払い、興南肥料工場のある日本人技術者は「労働英雄」さえ受章した。
明確な親日派と規定される経歴を持ちながら、政権中枢に入った人物も少なくない。金日成の実弟で副主席まで務め、長らく第二人者の地位にあった金英柱が典型だ。彼は関東軍の通訳および補助要員として活動した経歴が特定されている。朝日新聞ソウル支局や総督府の御用新聞の記者らが労働新聞や宣伝部署の要職に就いてもいた。
飛行時間が2000時間を超す日本空軍のエースだった李 は、日本軍パイロット出身の同胞20人を組織して北韓空軍の創建を主導し、映画「赤い翼」のモデルにもなった。彼が07年7月に死亡した際、金正日は哀悼の意を表して花束を贈っている。
北韓は韓国の「日帝強占下親日反民族行為真相糾明に関する特別法」が規定するところの、いわゆる親日派を韓国に勝るとも劣らないほど<活用>してきたのだ。
日帝に協力した経緯は多角的に検証されるべきであり、その後の働きを全否定するほど、過去に重きを置くべきではない。韓国は米国と親日・保守の分断勢力がつくった<悪の国>と見たがる立場は、力を合わせ無から有をつくり出す苦労を特定の政治的立場ゆえに否定するものでしかない。
(文中・敬称略)
(2012.10.3 民団新聞)