掲載日 : [2003-08-14] 照会数 : 12777
共に生きる職場めざして 活躍する在日同胞公務員(03.8.15)
[ 左・孫敏男さん。右・金幸子さん
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[ 左・金直美さん。右・李昌宰さん ]
永住外国人の公務員採用を妨げてきた国籍要件の壁が崩れ、70年代初頭から在日2,3世が進出するようになってきた。各地で活躍する数多くの同胞公務員のなかから本名を名乗り、職場と地域で「内なる国際化」を担っている4人の同胞を紹介する。
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兵庫・川西市役所…孫敏男さん
管理職就任「後輩の励みに」
在日同胞2世、孫敏男さん(48)が兵庫県川西市役所の副主幹(課長補佐級)に昇任することが決まったのは00年3月のこと。同年4月1日付で発令された。在日同胞としては全国で初の管理職就任だった。現在は市教委事務局教育振興部に所属、総務調整室の施設担当副主幹だ。
同市役所によれば、技術職の昇進は他の一般職より比較的遅いといわれている。そうしたなか一般職に採用されてから27年目にして実現した孫さんの昇進は同期のなかではかなり早いという。
74年に一般職の建築技術職に採用された。同市が一般職で在日同胞を採用したのは孫さんが初めてだった。主任を経て92年には係長にあたる主査に昇任。7年の年月を経て99年に副主幹昇任試験を受けて合格した。孫さんは「やったことが評価されたのでしょう。それしかない。外国人に公務員への道を閉ざしている自治体は多い。私の昇任で門戸開放に拍車がかかれば」と胸の内を語った。
川西市を含む阪神6市1町が全国に先駆けて一般職の門戸を開放したのは73年のこと。地元の在日同胞団体ばかりか在日同胞の進路指導を担っていた公立高校の教員や部落解放同盟大阪府連などによる組織だった働きかけが大きな役割を果たした。
このころ民間企業ではあたりまえのように就職差別を繰り返していた。空調関係では業界大手の地元兵庫の高砂熱学が、「(生徒が)部落、朝鮮と分かっていれば、送り込むな」と進路指導担当の教員に電話をかけてきたため一大糾弾闘争が展開されたこともあった。
孫さんは「高校進学の時から民間の厚い就職差別の壁があるのは周囲から聞いて知っていた。ましてや公務員になるなんて雲をつかむような話だった。国籍の壁を低くするのが自分の社会的使命」と自らに言い聞かせてきた。県立尼崎高校に進学して在学中、建築科に学んだのも「手に職をつけないと食べていけない」と知っていたからだった。市役所受験は担任教員から勧められた。
採用が決まると市建築課に勤務しながら夜間大学に通い、卒業後は数年の実務経験を積んで1級建築士の資格を取った。孫さんとは高校の同級生で、30年来のつきあいという黄光男さんは孫さんを「差別是正に先頭に立って闘う、常に全力でつっ走る男」と話している。当時、施設課のなかで1級建築士資格を取得した職員は孫さんのほかにはいなかった。
1級建築士として独立する道を選ぶことも考えられたが、孫さんが念願としてきたのは本名で公務員として働く同胞の仲間を1人でも増やしていくこと。まだ公務員になれないと思っている後輩たちに「なれるんだ」という情報を発信していかなければと市役所に残った。
これまで手がけてきた建築物は福祉施設が多い。なかでも特別養護老人ホーム「満寿荘」と明峰公民館は計画段階から関わった孫さんの代表的な建造物。コストを考えながらも市民本意の快適な居住環境が高い評価を得た。こうした評価の積み重ねが孫さんの管理職就任に道を開いた。
今後の昇進は孫さんが「なりたいからなれるものではない」。上からの直接的な発令人事になる。
孫さんが今後、課長級の主幹、さらにライン職にあたる次長、議会答弁も担う部長級の参事へと上りつめていけるのかどうか。孫さん自身は「人事がどこまで(外国人の昇進を)許せるかどうかの問題。市民のコンセンサンスしだいでしょう」という。
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京都・城陽市役所…金幸子さん
市民に身近な韓国を紹介
金幸子さん(32)は京都府城陽市の国際交流員として、市と姉妹都市の関係を結んでいる慶山市との間で連絡調整すべてを担う立場。
今年で5年目に入った。市の国際交流員としては5代目にあたる在日3世。在日同胞の就任は金さんが初めてだった。
両市を結んで様々な情報のやりとりをこなし、交流の現場では通訳や翻訳も担当している。さらに市民の国際交流活動を側面から支援することも金さんの役割だ。
金さんが担当するようになって「日本人には韓国が身近になった」「市の国際交流の幅が一層広がった」というのが周囲の同僚による一致した評価だ。
金さんは「どうしたら市民に韓国のことを好きになってもらえるか、韓国の印象がよくなるか」といつも考えているという。韓国を好きになってもらえば、それだけ在日同胞への理解も深まると信じているからだ。
両市の姉妹都市交流のきっかけともなった夏の中学生サッカー親善交流試合の際には、「名札があったら仲良くなれるかな」とハングル入りで生徒全員の名札をつくったことも。気がついたら午前2時を過ぎていたという。
いまは市内の公立学校やロータリー、商工会、体育協会、国際交流協会などから講師として招かれる機会も多い。
市立城陽高校「国際理解コース」では金さんが生徒に韓国の「衣・食・遊」を紹介し、3年生の女生徒から「私も韓国へ行ってみたい」との感想を聞いた。金さんが「国際交流員の仕事をやってよかった」とやりがいを感じる一瞬だ。
「総合学習の時間」に訪れた西城陽中学の生徒からは「いままででいちばんよかった」との感謝の手紙をもらった。この手紙はいまも大事に保管してあるという。
民団南京都支部、民団京都本部、京都韓学の派遣教師、韓国教育院、婦人会の役員らも良き理解者として金さんの国際交流活動を支えている。市主催のフェスタでは韓学の教師と生徒に依頼して「扇の舞」を紹介した。目をきらきら光らせたおじいさんから「こんなすばらしい舞踊を見たのは初めて」といわれた。金さんには忘れられない思い出だ。
金さんはもともと英語教師を志望していた。在学中に教職課程の免許も取り、私立ならいつでも教壇に立てる。しかし、短大1回生のときに参加した民団の母国春季学校が金さんの「人生観を変えた」。韓国国内の隅々まで見て回るうちに「韓国のことをもっと知りたい。知るのが楽しくなった」。
幼少期は出自を隠しびくびくしながら育った。小学生5年生の時にクラスメイトから「おまえ韓国人やろ」と聞かれ、思わず「日本人」と偽ったことも。このことは後々まで金さんの中で心の傷となって残った。それだけに春季学校への参加は金さんの人生を大きく変えたといえる。
短大卒業と同時に延世大学に1年半、語学留学した。これは春季学校に参加したときから決めていたこと。迷いはいっさいなかった。日本に戻ってからは本名だけを名乗るようになった。一時期民団京都本部に勤務した体験を買い、南京都支部の当時の事務部長、金小道さんが市国際交流員として金さんを城陽市に紹介した。
金小道さんは「金幸子さんが国際交流員になってから地域の交流がさらに活発になった。それまで国際交流を担当してきた留学生は2,3年ごとに替わるので南京都支部を悩ましてきた。いまは安心だ。これからも在日同胞と韓国、地域の共生に尽力してほしい」と期待している。
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兵庫・尼崎市役所…金直美さん
徴税で〞公権力の行使〟も
金直美さん(33)は兵庫県尼崎市役所情報政策課に異動になって今年で4年目。在日3世だ。現在は税のオンラインシステムの開発管理を担当している。賦課、徴収から証明発行まで、税に関わるすべての業務を効率的に進めるための生命線ともいうべき仕事だ。
一般的に税の徴収や滞納処分は建築許可、生活保護などと並び「公権力の行使」とされる。一般事務職で外国籍者を採用しても国の制約基準に配慮、多くの自治体は配置していないのが実情。それだけに尼崎市のケースは全国的にも珍しい。
金さんはなぜか税の徴収業務と縁があるようだ。情報政策課に異動になる前にも9年間、税務部収納課(組織改正により現在は税務管理課)に在籍していた。収納課は窓口での出納業務や納税証明の発行を担当する部署で直接の徴収は収税課で行っている。
ところが、金さんは98年度、女性2人で構成する滞納税の徴収チームに組み入れられた。「予定外の人事」に金さんは「まさか(在日韓国人の)私が」と驚いた。女性職員の個別訪問を受けた納税者はもっとびっくりしたようだ。納税者は本名の名札を胸に、制服を身にまとった金さんにですら「本当に職員か」といぶかったという。
金さんは在日韓国・朝鮮人教育で特別な取り組みを行うことで知られる市立尼崎高校出身。1年生のときから朝文研(現在、在日韓国・朝鮮人生徒同胞の会)に出入り、顧問でもあった藤原史朗教諭(全外協代表)の薫陶を受けた。
「キム・チンミ」の本名を名乗るようになったのも、市役所受験の決意を固めたのも藤原教諭の指導に負うところが大きい。金さんは「市役所なんて絶対に無理。受けようとも思わなかった」と当時を振り返っている。
88年、尼崎市役所に採用された。市立尼崎高校を卒業した在日韓国・朝鮮人が同市役所の一般職に合格したのは金さんが初めてだった。市役所小田支所に配属され、市民課で国民健康保険や国民年金、住民票や戸籍謄本など市民と直接接触する窓口業務を担当した。
「金」1文字の名札は支所を訪れる市民にはなじみが薄かったようだ。「カネさん」と呼ばれたこともあった。金さんが「キムです」と訂正しても「キヌさんですか」と再度聞かれたという。
藤原教諭は「市役所に本名を名乗る在日韓国人が働いていることが、どれほど多くの日本人を覚醒させていることか。同胞にも勇気づけになったことだろう」という。だから99年に市役所のトイレ内で「税金の所に朝鮮人がおる」と言う趣旨の金さんを中傷する落書きが見つかったときも「どんなことがあっても辞めるな」と金さんを激励し続けた。
落書きは内部職員による「なんらかの逆恨み」とする説が有力。市役所は税務部の職員全員を集めて人権研修を行った。一方、金さんは「驚いたけどいつあってもおかしくないこと」とさばさばした表情だった。金さんは「在日同胞の公務員はまだまだ圧倒的に少ない。私たちのような公務員が増えていけば後輩の励みにもなる。これから後に続く人のためにも頑張らなければ」と自らを励ますように語った。
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奈良・生駒郵便局…李昌宰さん
本名で働ける職場へ努力
奈良県の生駒郵便局に主任として勤務する在日3世の李昌宰さん(37)は4月からセールススタッフとしてこれまでの集配業務に加えて営業活動でも頑張っている。
「郵便外務職」として採用された当初は「将来とも外務職に限る」とされた。万が一けがで郵便配達などの外務作業ができなくなれば、職を失うというリスクを抱えていた。ところが、4月からの郵政公社発足に伴って採用制度が大きく変わり、外国籍者でも「郵便内務職」(特定局・普通局の窓口業務など)に就けるようになったのだ。
同局の吉田卓生集配営業課長は「李主任は責任感が厚く、事務処理も的確で能率も大変高い」と評価している。また、同僚の松崎伸太郎さんは「集配営業課は協調性が必要。彼はお客様のこと、職員のことそして郵便局の未来のことをいつも考えながら行動している」と話している。
李さんは大阪・八尾市の被差別部落出身。「トッカビ子ども会」と出会い、小学校5年のとき全校生徒の前で「本名宣言」、「差別に負けない」と決意した。一方で高校の進路相談では「向こうの人は(就職が)難しい」といわれてがく然とした。
在日同胞の「おっちゃん」や「おばちゃん」がいかに不安定な就職先に甘んじてきたかも目の当たりにして知っていた。李さんが「郵便外務職国籍条項撤廃運動」の当事者に身を置いたのは、自己実現がかなわない不条理な制度を変えたいと思ったからだ。
幸いにも郵政の職場では、定住外国人を積極的に仲間として受け入れたいと願う多くの職員がいた。また「トッカビ子ども会」や部落解放同盟をはじめとする周囲の仲間にも支えられた。3年間は就職浪人もいとわない覚悟だったが、わずか1年足らずで念願をかなえることができた。
84年、28倍の狭き門をくぐり抜け、郵便外務職の試験に合格した。同期には「郵便外務職国籍条項撤廃運動」を共に目指した孫秀吉さんら4人が本名で採用されていた。
李さんと孫さんは仲間を求めて同胞の在局先を回り、87年に「郵便局同胞の会」を結成した。これから郵便局を目指して入ってくる同胞の仲間が本名で安心して働ける職場をつくっていくことを会の目的とした。
当時、郵便局の職場では民族差別落書きや、民族差別発言が起こっていた。一方で民族差別を許さない土壌があり、近畿の郵便局すべての職員に民族問題の理解を広げる研修が持たれた。これを機会に李さんは、「同胞の会」のメンバーとともに在日同胞の存在を理解してもらえるよう努めてきた。
郵便局で働く同胞の仲間はこの19年間で38人に増えた。李さんが知る限り13人が本名を名乗っている。このうちの4人は職場で「本名宣言」をした。ここにも「同胞の会」という後ろ盾の大きさが感じられる。
李さんは「郵便局であれ、企業であれ、定住外国人がルーツを明らかにし、働く場を増やしていくことが重要なのです」と話している。
(2003.8.15 民団新聞)