水原駅から乗ったバスを降り、八達門の前に立った途端、熱い感慨がこみあげた。「まるで、ローマのサンタンジェロ城だ!」
水原華城。八達門は南側の正門である。18世紀末の朝鮮の建築がなぜローマの古城を想起させるかというと、門の上部に戴く楼閣はいかにも朝鮮式ながら、門を守って高く築かれた半円形の煉瓦壁が、ハドリアヌス帝の霊廟として建てられ、要塞化されたサンタンジェロ城の円形の城壁によく似ているからだ。
個人的な感想ではあるが、独りよがりの妄想でもない。というのも、水原華城は意識的に西洋の技術を採り入れて築城された、鎖国を基本とした朝鮮王朝としては実に画期的な建築物だからである。
建設を決めたのは、第22代の王、正祖。イ・サンという、ドラマにもなった名で語るほうがわかりやすいかもしれない。この朝鮮王朝後期きっての開明君主が発案し、丁若を代表とする若き実学者たちが、北京経由で伝わった洋学の技術を駆使して建設にあたったのが水原華城なのだ。1794年に着工され、1796年に完成を見ている。
もとは、祖父の英祖王によって米びつに閉じこめられて殺された悲運の父、思悼世子の墓を水原に移転したのに伴い、亡父の陵墓を守護する強固な砦を建設したいという意図から企画されたが、やがて城郭都市として充実を図り、儒教的因習と党争に呪縛された漢城(ソウル)を離れて、水原華城に遷都することを考えるようになる。華城は実学の砦であると当時に、政治や社会を一新する改革の意志を込めた理想主義の牙城でもあったのだ。
城郭に沿って歩き始めた。一周するには2時間半かかると聞いた。ともかく広い。要所をまわる華城列車も走っている。ディズニーランドなどでよくある観光用のライドだ。私もまずはこのライドに乗ってぐるりと外観を把握し、折り返して徒歩で細かく見ることにした。華西門、長安門、華虹門と、次々に現れる城門が、東西融合の壮観を繰り広げる。まさに「East Meets West」の巨大なモニュメント。ユネスコの世界遺産に登録されたのも当然であろう。
華城の完成から4年後の1800年、正祖が急死する。まだ数え49歳だった。以後、遷都計画は反故となり、華城は見捨てられたも同然の態となる。正祖が嫌った老論の守旧派官僚たちが実権を握り、王の姻戚が幅を利かす勢道政治が展開され、朝鮮王朝は亡国に向けたゆるやかな坂を下り始める。正祖の抱いた改革の夢は水泡と帰し、丁若など実学者たちも多くが朝廷を追われた。
儒教的教理に忠実であろうとするあまり、とかくイデオロギー論争に傾きがちだった朝鮮王朝の精神風土にあって、実学の砦として東西融合の強健な建築が生まれたことは、奇跡にも等しい。せめてあと10年、正祖が生きていたならと、歴史にIFは禁物と知りつつ、ついそんな思いにとらわれる。
半日近くを城内にすごし、去る時は北側の正門である長安門から出た。バスに乗る前に、再度長安門を見あげた。西日を受けて、華城が輝いていた。正祖の夢が蘇るように感じた。
多胡吉郎(作家)
(2013.7.31 民団新聞)