水原華城への興味の延長で、ここまで足を伸ばすことになった。茶山遺蹟地。ソウル中心地から西に30キロ、南楊州市の北漢江と南漢江が交わる風光明媚な土地にある。
茶山とは、正祖を支え水原華城の設計も担当した丁若の号。天才的な実学者の生家と墓を中心に記念館と文化館がたち、その偉業を偲べるようになっている。
「イ・サン」のドラマを見た人なら、王子時代からイ・サンを助けて奮迅した洪国栄が失脚した後、入れ替わるようにして王を助けた青年官僚がいたことを記憶しているだろう(演じたのはソン・チャンウィ)。これが茶山こと丁若である。
バスを降り入り口に向かう道を進むと、道端にクレーンのような機械が置かれていた。挙重機(起重機)。華城の築城にあたり、丁若が考案したものだ。華城の工事期間が比較的短くすんだのは、丁若のこうした発明のおかげだった。
また挙重機と並ぶ彼の工学的発明として知られているものに、漢江を王の行列が馬のまま渡れるよう、船を並べてその上に橋をかけた船橋がある。橋本体に使用した36隻を始め、全体で80隻もの船を使い、両岸を結んだ。
正祖はたいそう丁若を信頼した。一族に天主教(カトリック)が多いとして、老論派の陰謀から丁が朝廷を追われ配流になった際も、王は10日ほどで呼び戻している。
丁若も正祖の王としての資質を高く評価した。「狩や贅沢を好まず、学問に励む臣下を大切に思い、穏やかな性格は王だからといって決して癇癪を起こさず、どの臣下も虚心坦懐に話をすることができた」―。まさに朝鮮王朝の黄金時代であった。
だが1800年、正祖の死去とともに運命は一変する。改革政治は否定され丁若は失脚、18年もの配流生活を余儀なくされた。王の懐刀として活躍する華々しい座から突き落とされたのである。
普通なら、そこで人として終わる。酒に溺れ、自堕落な余生を送るばかりとなる。だが丁若は違った。「逆境にあってこそ真の学問に没頭できる」と、学を極め執筆に専念した。科学研究のみならず、奴隷制の廃止を提唱するなど、政治や社会の改革を説き続けてやまなかった。
1818年に許されて帰郷するが、生家に戻って以後も執筆に明け暮れた。『牧民心書』『経世遺表』『欽欽新書』など、生涯に書き残した本は5百冊を超える。
茶山文化館では気骨ある生涯をまとめたビデオを上映しているが、これがなかなかの出来ばえで、18年ぶりに帰郷し、老いた妻に再会するくだりなど涙を誘う。生家の裏の丘の上には、妻とともに葬られた墓がある。
最近では丁若を「朝鮮のダ・ヴィンチ」と形容することもあるようだが、多方面にわたる学識と業績は、その名を辱めない。だが私個人としては、特にその後半生の生き方に惹かれる。人として範とすべき不滅の魂が、未来永劫に光を投げかけている。
胸を熱くして遺蹟地を後にした。ソウルへ戻る車窓から、漢江の流れが見えた。穢れを知らぬ牧歌的な風景に、その人の魂がよく似合うように思った。
多胡吉郎(作家)
(2013.8.15 民団新聞)