白日夢をさまよう気分だった。南浦洞、光復洞、新昌洞、大庁洞と、土地に眠る記憶の糸を求めてやみくもに歩く。かつてそこに存在したことは確実ながら、屋敷跡や石垣など痕跡となるものは一向に見いだせない。やがて本丸へと中央突破を図るように、南浦洞からエスカレーター歩道で一気に上った。頂きには龍頭山公園がある。李舜臣将軍の像がたち、釜山タワーがそびえる観光名所だ。
公園への入り口に、小さな案内の碑があった。1678年から1876年までこの一帯に草梁倭館が置かれ、朝鮮と日本の交流の中心地であった旨説明されている。小さな碑でも、そこに語られた歴史は実に貴重だ。
倭館はもともと15世紀前半、倭寇対策もあって世宗大王が釜山など3つの港を開き、交易のために倭人居留地を設けたのが始まりである。豊臣秀吉の朝鮮侵攻で両国関係はズダズダになるが、徳川政権は平和的善隣関係を模索、1607年に釜山にだけ倭館の設置が許可される。初めは豆毛浦にあったが、後に草梁地区に移された。以後200年間、両国間の外交貿易基地として機能したのである。
江戸時代、オランダとの交易のため長崎に置かれた出島の朝鮮版といったところだが、広さは出島の25倍、500人もの日本人が駐在していた。朝鮮側からは米や人参、木綿などが、日本側からは銅などの鉱物資源に、コショウやミョウバンの南方物産などが、ここを経由して相手方に渡った。10万坪の広大な敷地の中には窯もあり(釜山窯)、御本(見本)を送り、朝鮮の土を使い現地陶工の手を借りて茶碗を製作した。3代将軍徳川家光の御本をもとにした立鶴の茶碗が有名だ。
龍頭山公園にも直接倭館の面影を伝えるものは何もない。タワーに上り高さ120㍍の展望台から俯瞰してみたが、どこまでも広がる大都市の姿が圧倒的で、そのエネルギーの前に歴史の遺物は消えてしまったような印象を受ける。
地下鉄に乗り、釜山博物館へ向かった。ここの韓日関係室は充実していて、倭館関連も釜山窯の解説まであり丁寧だ。展示を見ていると、時を超えて倭館の存在が実感されてくる。しかも倭館の意義を、北方の大陸文化と南方の海洋文化が交流する貴重な舞台であったと、グローバルな視点で捉えており説得力がある。何せ最近の研究によれば、出島でオランダ人から伝わったワッフルが、釜山の倭館で朝鮮の役人相手に供されたというのだ。壮大な交流の意義は今後ますます世界の注目を集めるに違いない。
閉館と同時に町へ出た。既に黄昏である。現実の中に立つと、博物館で得た実感が再び揺らぎ出す。徒労を重ねるように足を棒にして歩く。
東の空に月が昇ってきた。彼方の海上に、月光を浴び黒く浮き出た島影がある。「釜山港に帰れ」でも歌われた五六島。その瞬間、以前に書物で読んだ対馬藩士・小川次郎右衛門の俳句が浮かんできた。「名も高し五六に照れる月の露」‐。間違いなく、この景色を小川も見ていたのだ。200年の時を超え、私の脳裏にようやく倭館が蘇った。
多胡吉郎(作家)
(2013.11.6 民団新聞)