仁川国際空港よりソウル市内に向かうバスから何度となく目にし、気になっていた。漢江ぞいの小山の頂上に、オベリスクのような塔が見える。400年以上も前に日本と関わりのあった場所であることを知らずに、通過する観光客も多いことだろう。
幸州山城。豊臣秀吉の誇大妄想的な野望から朝鮮に侵攻した壬辰倭乱(文禄の役)の折、朝鮮軍と秀吉軍が戦い、激戦の末に朝鮮側が勝利を収めた古戦場である。閑山島海戦、晋州城攻防戦とともに、壬辰倭乱の3大大捷(3大勝利)の一つとされる。
地下鉄3号線の花井駅前からバスに乗り、幸州山城の入り口に着く。門をくぐると、銅像とレリーフが出迎えた。銅像の主は権慄将軍。水軍の将・李舜臣と並び称される陸の名将である。レリーフは戦闘に参加した人々を描いたもので、官軍、僧兵、義兵、女性の4つの図からなる。
釜山に上陸して以来、破竹の勢いで北上した秀吉軍だったが、明の援軍が朝鮮に到着したことで戦局が変化した。明軍は平壌を奪還して南下をめざす。権慄は明軍に呼応しようと、2300の兵を率いて幸州山城に籠った。秀吉軍は漢城(ソウル)に近い朝鮮軍の拠点を嫌い、3万の軍勢で囲む。宇喜多秀家、小西行長、石田三成、黒田長政、小早川隆景、毛利輝元‐錚々たる武将が陣を構えた。
戦闘が行われたのは1593年2月12日。秀吉軍は3度に分けて攻撃したが、朝鮮軍はよく耐え敵を退けた。矢が尽きかけて危機に陥るが、背後の漢江に着いた援軍の船から補充がかない、難を脱する。犠牲者が増えた秀吉軍はついに退却、2300の兵が3万の軍勢に勝利した。
何故秀吉軍は敗北したのか‐。疑問を胸に山道を登った。左右には松やクヌギの雑木林が続き、鳥の声が耳立つ。標高125㍍ほどの山頂には、幸州大捷碑と刻まれた巨大な戦勝記念碑が聳える。碑の前に立つと、眼前に漢江の流れが横たわる。なるほど、補給船の到着が命運を分けたのもよくわかる。
山頂近くには資料館もあって、当時の武器や戦況についての展示がある。火縄銃で武装した秀吉軍に対し、朝鮮側の主力武器は弓であったが、神機箭というロケット花火につけた矢を一度に100本も発射できる装置が開発されており、これが威力を発揮した。雨あられと降り注ぐ矢に、秀吉軍は手こずったらしい。
もうひとつ、忘れてはならない勝因がある。近在の女性たちが戦闘に参加し、投石に使う石の運搬に尽力した。押し寄せる敵めがけて投げ落とす石が、山城では弓以上に効果をあげたという。
女たちは前掛けに石を載せて運んだ。韓国では今でも前掛けのことを「ヘンジュ・チマ」と言うが、この呼び名は幸州山城の戦闘に由来する。どこか、市場で商いをする逞しきアジュマ(おばさん)たちの姿を彷彿とさせる。
権慄将軍の卓越した指導力もあったろう。僧兵、義兵の参加も大きな力になったろう。しかしアジュマたちの懸命な奮闘がなかったなら、幸州山城の歴史的勝利はなかったに違いない‐。山道を下りながら、確信が胸に込みあげてきた。
多胡吉郎(作家)
(2013.11.27 民団新聞)