地下鉄8号線の山城駅で降りバスに乗り換えると、ハイキング姿の客で混み合い空席もなかった。秋の好日、平日とはいえ紅葉見物に訪れる客が引きも切らない。ソウル中心部から南東に20㌔、南漢山城は市民たちが自然に触れる憩いの地だが、今から400年近く前、国の命運を揺るがす絶体絶命の危機に見舞われた。
1636年12月、中国東北部を根城にする清が10万の軍勢で朝鮮に侵攻した。丙子胡乱‐。怒涛の勢いで南進した清軍は瞬く間に漢城(ソウル)に迫り、時の朝鮮王仁祖と将兵1万3000人は南漢山城に避難、籠城した。
清による朝鮮侵攻はこの時が初めてではなかった。1627年、当時はまだ後金と称していたが、3万の軍が朝鮮を襲い(丁卯胡乱)、明寄りの政策を改めさせ、後金と兄弟の盟約を結ばせた。だが朝鮮はその後も親明の姿勢を変えず、怒った清の皇帝ホンタイジ(太宗)は自ら大軍を率いて朝鮮再攻に踏み切ったのである。
終点の南漢山城ロータリーでバスを降りると、広場のすぐ横に行宮(王の行在所)があった。ガイドによる案内ツアーがあるというので、韓国人客に混じって参加した。南漢山城の行宮は近年に復元された建物も多いが、中心となる外行殿、内行殿は仁祖の時代からのものが残っている。
籠城の折、ここでは激論がかわされた。抗戦か講和か‐。主戦派は儒教的世界観から辺境の蛮族として清を蔑み、明に忠誠を誓って徹底抗戦を説いた。その中にあって崔鳴吉は「存国は為明にまさる(国の存続は明に尽くす以上に重要だ)」として講和を主張した。主戦派が圧倒的だったが40日後には城内の食糧が尽き、やむなく降伏する。
仁祖は清の陣営にホンタイジを訪ね、3回跪き9回額を地に打つ「三跪九叩頭の礼」をもって平伏した。さぞかし断腸の思いであったろう。主戦派の中心人物は処刑され、王子たちは人質として瀋陽に連行された。また「戦利品」として多くの朝鮮人が拉致され、奴隷として売られた。崔鳴吉によれば、その数は50万人にのぼったという。
1644年に明は滅び清が中華の覇者となるが、朝鮮はその後も清に対して君臣関係を強いられることになった。 ガイドによる行宮の案内が続いた。南漢山城はもとは百済や新羅の時代からの長い歴史があるが、解説の中心はどうしても清軍襲来の話になる。「仁祖と家臣たちは儒教的な観念論に傾きすぎ、結局は屈辱を味わうことになりました。空論を弄することなく、もう少し実務的な思考が必要だったのではないでしょうか…」。中年女性のガイド氏は、慎重に言葉を選びながら解説をまとめた。
行宮を後にし山道を登った。木々の間を30分ほど登ると、視界が開けた。尾根沿いに長い城壁が続き、その先に大都会が遠望された。秋晴れの青空のもと、遥かに南山タワーや北漢山までが見渡せた。
多くの人々が秋の一日を楽しんでいた。眺望に見とれる人、お弁当をひろげる人、トランプや伝統遊戯のユンノリに興じる人…。平和そのものの光景であった。
多胡吉郎(作家)
(2013.12.11 民団新聞)