公州から扶余へ‐。都を遷した百済の南下に合わせるように移動を重ねた。扶余は当時は泗 と呼ばれ、538年から百済の都が置かれた。過去に何度か滞在したが、今回は特にある愛の伝説の舞台を訪ねたかった。宮南池‐。人気ドラマにもなった薯童謡の愛の物語を今に伝える所だ。 伝説の主人公は後に百済第30代王・武王(在位600〜642年)となった璋と、新羅の王女・善花公主。『三国遺事』によれば、池のほとりに住む寡婦が龍と交わって生まれた璋は、薯を売っていたことから薯童と呼ばれたが、新羅の真平王の娘・善花が美しいことを聞いて新羅の都を訪ね、子供たちに薯を与えて自作の薯童謡を歌わせた。歌は善花公主が薯売りと恋仲だと言い立てたので、善花は新羅宮廷を追われ、璋は晴れて姫を百済に連れ帰る。やがて璋は武王として即位、善花は王妃になったという。
武王の生きた当時、百済は新羅との間に戦いを繰り返し、両国は敵同士の関係だった。ふたりは国家間の対立を超えて結ばれたことになる。尊くも美しい至高の愛だった。
『三国史記』によれば、宮南池は武王の治世下、634年につくられた。20余里の先から水を引き、周囲に柳を植え、池の中央に島を築いたとされる。池のほとりの女が武王を生んだという伝説と整合しないが、或いはもとからあった小さな池を拡大し、庭園にしたのであろうか。
現在の宮南池は薯童公園とも呼ばれ、いくつもの池の集合体が大きな水の空間を形成している。そこかしこに蓮が茂り、桃色の花が訪問者の目を楽しませる。池を背に璋と善花のマスコット人形がたち、人々がかわるがわる人形と一緒に記念写真を撮っていく。
課外授業なのか、子供たちの集団参観も目立つ。引率の先生が生徒たちに語っていた。「宮南池は慶州の雁鴨池より40年も早くに出来た。ウリナラ(我が国)最古の人工池なんだよ」‐。さすがは百済の末裔たちである。
中心となる池は周囲に遊歩道が設えられ、中央には島が築かれ橋が渡されている。島には抱龍亭という東屋があり、薯童謡の詩を記した扁額が掲げられていた。武王の誕生神話と薯童謡伝説がともに大切にされている。
だが、怨讐を超えた愛の伝説を見る歴史家たちの目は厳しい。百済と新羅が激しく対立し戦闘を重ねた当時、敵国から妃を迎えることなどありえないとする。新羅と同盟を結んだ第24代東城王が新羅女性を娶った事実と混同して伝説化されたとも説かれる。
事実としてはそうかもしれない。だが私は事実であるかどうかより、敵同士の愛の伝説が人々によって長く語り継がれてきたことに重きを置きたい。人の心は敵と見なす相手に憎悪をたぎらせもするが、半面、敵味方を超えた愛を憧憬し美化するものなのだ。後に百済が新羅によって滅ぼされたことを思えば、憎しみを超えた愛をこの地の人々が大切にしてきたことは奇跡のようですらある。
宮南池の蓮花がとりわけ無垢にも可憐にも輝いて見えるのは、地霊のように生き続ける至純の愛の記憶を養分として育つからかもしれない。
多胡吉郎(作家)
(2014.3.12 民団新聞)