忌まわしい東日本大震災から3年。被災地の宮城、岩手、福島の各地からの報告では、全壊した自宅を再建したり、就業や事業再開のメドがついたという同胞も一部で見られるようになった。しかし、大多数は依然として仮設住宅から抜け出せず、前途に希望を見いだせないまま不安な日々を過ごしていることが分かった。復興は未だしの感がある。
■□事業再開へ明暗2分 岩手
岩手県山田町で経営していた焼肉兼中華料理の店を津波で流され、築5年の自宅も火災で失ってローンだけが残った朴夏博さん(64)。宮古市内の6畳1間の仮設住宅に入り、ひっそり暮らしている。
仮設住宅に移って間もなく、「追い込まれている。前に進まないと生きていけない」と、近隣で小さなテーブル2つだけの中華飯店を細々と始めた。ただし、売り上げは微々たるもの。7月からは山田町で共同店舗の建設が始まる。そこにかすかな希望を託している。国庫補助が4分の3あるため、入居に必要な負担は比較的軽い。完成は来年になる見込み。
同じく山田町で被災。長女の経営する駅前のカラオケ店、二男の喫茶店と事業所すべてを津波で失った朴明子さん(72)。被災を免れた自宅台所を改装して震災直後から売り出した手づくりの弁当が好評で、家の近くに臨時店舗を構えた。いまはスーパーにも卸している。喫茶店を再開し、新たに不動産店も開業した。
大船渡市内でいち早く震災の年の12月に、全壊した焼肉店を復活させた高浩暎さん(45)は、「8テーブルが週末になると満席に。順調にいっている。震災前の状況に戻った」と話す。
咸民さん(59、釜石市)も津波で失った釜石市内の海沿いの焼肉店を7月には再開する予定。工事は4月から始まる。規模は震災前と同程度になる見込み。「これから前向きに生きる」と力強く宣言した。妹さんに任せていた高台の店が被災を免れたことも幸いした。
事業再開のメドがついた同胞はまだ少数だ。大船渡市内で経営していた遊技場を失った洪啓子さんは、もう事業再開をあきらめたという。「薄明かりが見えたと思ったら規制がかかり、消されるの繰り返し。資金繰りも同じ。自前の土地を活用して飲食店をやろうかといまは思っている。山登りに例えれば未だ5合目」。
民団岩手本部の姜英萬事務局長は、「昨年12月に被災地の宮古、釜石などを回った。復興は少しずつ進んでいるが、事業を再開しようにも、土地の確保がままならないのが現状のようだ」と語る。
■□高齢で働けず心労も 宮城
金日光さん(39、仙台市)は津波で家が全壊し、最愛の夫人を亡くした。約1年間というものは茫然自失の状態だったが、いまは仙台市内で新しい職場を見つけて表情も明るい。岩手県久慈市の親族家庭に避難させた3人の子どもたちには給料の半分を仕送りできるようになった。金さんは2カ月に1回は子どもたちに会いに行くが、普段はメールのやりとりで近況を確認しあっている。健やかに成長している子どもたちの元気な様子が金さんの活力の素だ。
呉玉順さん(46、名取市)は新築して間もない亘理市の自宅が津波で全壊した。昨年5月に家を建て直したことで、「希望というか少し前に進もうという気になれた」という。「お金がないのであまりきれいではないけれど、なんとか住めるようになった。周囲の手助け、韓国政府からも助けてもらった」と感謝している。仕事が見つからないのだけが悩みだ。
一方、民団宮城本部が津波による家屋全壊の同胞家庭77世帯を対象に昨年末からアンケート調査した結果によれば、回答者の多くはいまも、借家や仮設住宅で将来の不安を抱えながら暮らしている。
同本部は「震災から3年というこの時期は支援も滞る。被災者自身が必死で乗り越えなければならない。でも、高齢で働けないうえに精神的な心労も重なり、病に苦しんでいる同胞が多い」として民団中央本部に支援を要請している。
■□除染進まず帰宅困難 福島
東京電力福島第2原子力発電所のある双葉郡富岡から避難、いまは郡山市内の借り上げ住宅で暮らす陳愛子さん(60)。「先のことはまったく考えていない。考えれば腹ばかり立って、頭がおかしくなるだけ。この年で商売は無理だし、とにかくいまは1日を平穏無事に過ごせるのがいちばん」と嘆く。
「富岡の自宅は3年が経過しても線量計が鳴りっぱなしのホットスポット。母がコツコツ遊技場を経営して韓国で買い求めた螺鈿家具をはじめとする思い出の詰まった家財を持ってこれないのが辛い。除染はいつになるのか。東電はなにを言っても聞いてくれないし、私たちも補償目当てだとは思われたくないし」。
張賢淑さん(53)は原発から8㌔圏内の浪江で被災し、いまは南相馬市の仮設住宅で暮らす。震災前はゴルフ場でキャデイを務めた。いまはコンビニでのバイト暮らし。給料は半分に落ち込んだが、家賃や医療費が無料のため、なんとか生活できている。もう浪江には戻らないという。
双葉郡大熊町で経営していた遊技場9店舗のうち5店舗を失った禹文吉さん(60)。「街に活気を」との市役所からの要請で原発圏外の4店舗だけは営業を再開したが、肝心の若い世代は地元に戻ってきていない。「精神的に不安定。なにごとにも慎重になった」
姜姫順さん(郡山市、55)はいまも震災当時の悪夢にさいなまされている一人。「地震がいつまた来るのかと思うと怖くて怖くて。少しでも揺れを感じると胸がドキンとする。精神が不安定でひと月に1回、医大病院の検査を受けている。生活はぎりぎり」。
(2014.3.12 民団新聞)