薯童謡への興味に惹かれ、扶余から益山市の近郊、弥勒寺址へと足を伸ばした。発掘調査が進行中と聞いてきたが、大きな格納庫がまずは目につく。覆いの中で石塔の解体補修作業が行われているのだ。側面に描かれた絵で、解体前の姿が窺い知れる。
『三国遺事』が語る薯童伝説の後半‐。武王と王妃(善花公主)が獅子寺詣でに龍華山の麓まで来た時、池から弥勒三尊が現れ、妃はその地に寺院の建立を願った。知命法師が神通力で山を削り池を埋める。完成した寺は弥勒寺と命名された。善花の父、新羅の真平王も工人を送り、建立を助けたという。
百済滅亡から膨大な歳月が流れ、弥勒寺址は長い間、崩れかかった石塔が1基あるだけだった。本来は9層あった石塔は東北側の6層のみが何とか倒壊を免れていたが、1915年に補修が行われ、残存部分が背後からセメントで固められた。
1980年から弥勒寺址に新たな光が当てられた。3次にわたる発掘調査により、もとは池の上に建てられたことや三塔三金堂の伽藍配置などが確認された。石塔も解体調査に入ったが、2009年に驚くべき発見がもたらされた。第1層から金銅製の舎利壺と金製の舎利奉安記などを収めた舎利荘厳が見つかったのである。奉安記には弥勒寺の由来が記されていた。
それによれば、寺の建立は武王治世下の己亥の年(639年)で、百済王后が寄進したとある。と、ここまでは『三国遺事』をなぞらえる。だが王后は百済朝廷の最高位職・佐平の沙宅積徳の娘とあって、善花の名はなかった。『三国遺事』の一部を証明だてながら、善花の存在に関しては闇に突き落とした格好となった。
百済史のパンドラの箱を開けるような出土品の数々は、弥勒寺址遺物展示館で見学できる。舎利壺の工芸美もさることながら、やはり金製の板に字を刻んだ奉安記に目を奪われる。古代から蘇生した記録と薯童謡伝説がどう整合性をもつのか、謎は尽きない。 展示館を出て再び伽藍の跡地に立った。龍華山を背に、もとは3つの塔と堂が並んでいたのだ。解体補修中の石塔は西院に当たり、東院のあった場所には1992年に復元された石塔が建つ。中央には最も高い木造の塔が建っていたのだという。
百済最大の伽藍を誇ったという大寺院がどうしてこの地に建てられたのか‐。武王は都を泗 (扶余)から当時金馬と呼ばれた益山に遷したと考える学者もいる。
こうは考えられないだろうか。善花の没後、武王は愛妃の思い出が残る金馬に寺を中心とする別宮を建て、聖域にしようとしたのではなかったか。亡き王妃の菩提寺となる寺であれば、王の愛の大きさのままに、規模は空前絶後のものとなったのだろう。工事に当たっては、王の後妻に娘を輿入れさせた佐平の沙宅積徳が支援した。善花追慕の寺なら、新羅王が工人を派遣したのも頷ける…。
石塔の解体調査は既に終了し、2016年には復元作業も完成する予定と聞く。1400年近い歳月を超え、古代ミステリーの解明は21世紀に現在進行形で進んでいる。
多胡吉郎(作家)
(2014.3.19 民団新聞)