扶余の町で既にその人の銅像を見た。町のロータリーの中心に、馬上の勇姿が睨みをきかせていた。百済最大の英雄にして殉国の忠臣、階伯将軍。イ・ソジンの主演でドラマにもなったので、その名を知る人も少なくないだろう。
扶余からローカルバスで論山に移動し、ターミナルでタクシーに乗り換えた。目指すは階伯将軍遺蹟地。その人への興味と、その地が天下を分けた古戦場であることが、百済の奥地へ足を進ませる。
660年、新羅は唐と軍事同盟を結び、金 信率いる新羅軍5万と蘇定方率いる唐軍13万の連合軍が、百済の都・泗 (扶余)に向けて進軍した。東の防衛線の炭峴を新羅軍が越えたとの報に接した百済の義慈王(薯童謡伝説の武王の息子)は、急ぎ階伯将軍を新羅軍撃破に向かわせた。百済軍は黄山伐で新羅軍を迎撃することになる。
新羅軍は5万、迎える百済軍は5千。百済にとっては背水の陣、死にもの狂いで戦うしか道はない。階伯は出陣に際し、妻子を自らの手で殺した。捕虜になり辱めを受けるよりはましだとの考えもあったが、後ろ髪を引かれ未練の種となるものを絶つことで、後のない戦いにすべてを懸ける覚悟を決めたのだ。
将軍の決死の覚悟は兵士たちにも伝わり、士気の上がる百済軍は奮闘する。4度戦って、その都度、見事に新羅軍を押し返した。
意気の上がらぬ新羅軍であったが、金 信の弟の金欽純は息子の盤屈に命を捨てて敵陣に攻め入るよう促し、盤屈は果敢に百済陣営に突入して討ち死にする。
左将軍の金品日は16歳の息子官昌に命じ、単独で百済陣営へと突入させる。官昌は捕まるが、そのあまりの若さに階伯は新羅陣営に送り返す。だが官昌は再び単騎で敵陣に突撃する。再度捕まるが、さすがに階伯は、今度は官昌の首を跳ね、首級を敵陣に送った。
新羅が誇る花郎(若武者)の潔い死に新羅陣営は沸き立ち、闘志をみなぎらせた。以後、数の上でもまさる新羅軍が優勢に転じ、ついに百済軍は壊滅、階伯は戦場で壮烈な最期を遂げた。
タクシーは30分ほどで階伯将軍遺蹟地に着いた。黄山伐の古戦場の一角に伝わる階伯の墓を中心に、位牌を祀る忠壮祠や銅像、百済軍事博物館などが建てられ、あたかも階伯将軍のメモリアルパークのようになっている。
その墓は芝草の上に土を盛っただけの素朴なものだ。戦乱の収まった後、百済の遺民たちが階伯将軍が亡くなったと思われる場所に墓を設けたという。ひっそりとした墓前にたたずむと、さまざまな思いに駆られる。
出陣時の家族との逸話から新羅軍の若武者とのやりとり、戦場に斃れるまでの一連の流れは、そのまま古典劇を見るかのようだ。無念で痛ましくもあり、天晴なほどに見事でもある。百済の誇りという次元を超え、人間の生きざま死にざまについて多くを語りかける。
黄山伐の戦いに勝利を収めた新羅と唐の連合軍は、雪崩を打って泗 へと攻め寄せる。階伯将軍を失った百済に、もはやその進撃を食い止めるすべはどこにもなかった。
多胡吉郎(作家)
(2014.3.26 民団新聞)