百済の歴史を語るのに、やはりここは外せない。扶余の扶蘇山城‐。かつては泗 城と呼ばれ、都の後園、また有事の際の防衛拠点として築かれた。百済滅亡の悲劇を今に伝える場所となっている。
正門から入って山を周遊することも可能だが、私は遊覧船で白馬江(錦江)をのぼり、川沿いの後門から山を巡ることにした。船の出る所は「クドゥレ・ナルト」と呼ばれるが、船着き場を意味する「クドゥレ」が、日本で言い習わされる「百済」によく似た音なのに驚く。
船が出る頃から、ぽつぽつと雨が降り出した。無数の波紋を描く茶色の水を切って船は進む。遊覧船に乗りたかったのは、有名な落花岩を川から仰ぎ見たかったからだ。百済が滅ぶに際し、官女たちが次々と身を投げたという絶壁である。花が落ちるようだったのでその名がつけられた。 出船して10分もたたぬうちに落花岩にさしかかる。切り立った崖は高さが60㍍ほど、中ほどの岩場に「落花巌」と大きく漢字が刻まれている。朝鮮王朝後期の儒者官僚、宋時烈の手になるという。船上の観光客がいっせいにカメラを向ける。今では平和な観光地だが、百済滅亡の折には阿鼻叫喚の地獄絵が現出した。
怒涛の勢いで泗 (扶余)を襲った唐と新羅の連合軍は破壊の限りを尽くした。建物に火がかけられ、栄華を誇った百済の都は7日にわたって燃え続けたという。義慈王は落城を前に熊津(公州)に逃れるが、結局は降伏し、唐に連行されて死ぬ。
1993年に陵山里の寺址の古井戸から金銅大香炉が発見されたが、今では国立扶余博物館の目玉となっているこの百済王室の宝が井戸の底に眠っていたこと自体、戦火の混乱のさなか、慌ただしく隠されたことを物語っている。
船を降り、後門から扶蘇山城に入った。しばらく登ると、落花岩の頂きの場所に百花亭という六角形の東屋があった。ここからは白馬江と田園風景が一望のもとに見渡せる。身を投げる直前、官女たちも今生の最後にこの景色を目にしたのだろうか。
傍らの案内板に、「(官女たちは)百済女性の貞節と高貴な忠烈の見本となった」とあった。これは朝鮮王朝的というか、いかにも儒教的な解釈になろう。なるほど、儒者の宋時烈の字が刻まれたわけだ。要は死をもって貞節を守り忠を尽くした烈女として、顕彰しているのである。
官女3000人が自死したと伝えられ、さすがにこの数字は当時の宮廷ではありえないと学者たちは否定するが、これも顕彰化の過程で数が膨らんだのであろう。実際には、覚悟の自決を遂げたというより、迫りくる敵兵から逃れ逃れてここまで来たが、万策尽きて絶壁から川に身を投じたのではなかったろうか。
百花亭を後にし、扶蘇山城をまわる。雨足が強くなってきた。観光客も見当たらず、ただひとり歴史幻想の中をさまよう心地となる。霧が湧き山を包んだ。景色がおぼろに霞み、灰色の紗幕の奥から、逃げまどい助けを求める官女たちの叫び声が聞こえてくる気がする。百済滅亡‐。1350年を超す歳月を貫き、慟哭の悲劇が生々しく迫ってきた。
多胡吉郎(作家)
(2014.4.9 民団新聞)