距離の近さに比べ随分と時間がかかってしまった。ソウルの新村を発ったバスは2時間近くも走って、ようやく江華島へと渡る橋を越えた。橋下の流れは塩河江。漢江が黄海へ注ぐ直前に分かれた支流で、漢江本流とともに江華島を陸から切り離す。
江華のバスターミナルでタクシーに乗り換え、5分ほどで目的地に着く。高麗宮址。高麗王朝は現在では北朝鮮に属する開京(開城)に都を置いたので、韓国ではその遺蹟を訪ねることが難しい。しかし江華島では高麗関連の歴史スポットが少なくない。蒙古が朝鮮半島を襲った際、高麗は都を江華島に遷して(1232年)抵抗を続け、以来40年近く、天然の要害のこの島に籠城したからである。
ところがいざ高麗宮址の境内に入ると、高麗時代の面影を伝えるものは何もない。蒙古の圧力から都が再び遷された後、徹底的に破壊されたので、楼閣はおろか石垣や土塀すらも残っていないのだ。
私は現地訪問の前に井上靖の『風濤』を読んできたので、無の空間にも歴史の煮凝りのような気を強く感じた。この作品は元宗と忠烈王の2代の王を主人公に、蒙古の朝鮮侵攻から日本を襲撃した元寇に至る過程を高麗の視点で描いた歴史小説だが、蒙古の覇権がもたらした被害や過重な負担がよく見てとれる。
武力で高麗を蹂躪した蒙古から和睦の条件として提議されたのが、都を江華島から開京に戻すことだった。高麗王はしぶしぶ従うが、還都に反対した一部勢力が徹底抗戦を唱えて三別抄の乱を起こす。この愛国人士たちの義挙を、高麗はやむなく征討する。高麗を完全に制覇した蒙古は、次なる矛先を日本へ向ける。1274年、高麗を先兵役に蒙古が第一次元寇(文永の役)に踏み切るのは、再還都から4年後のことだ。
高麗王宮があったさら地の中央に、今ではぽつんと外奎章閣がたつ。奎章閣は朝鮮王朝第22代王の正祖が王宮内に設けた王室関連書籍の収蔵庫だが、当時江華島にあった行宮にも外閣が設置された。王立図書館の本館を都の王宮に、別館を江華島に設けたようなものだが、高麗宮址に現存する建物は2003年に復元された。高麗時代の歴史遺構に朝鮮時代の建物が紛れ込んだようで、いささか落ち着かない。抗蒙期の高麗に想像力を集中させたくても、500年後の時代の語り部が横槍を入れてくる。
観光客の案内をする初老のガイド氏がいたのでこの点を尋ねると、「正祖王は大事な史料を保管するのに江華島なら安全だと考えたのです。高麗の宮廷がここに逃げ込んだのと同じことですよ」と教えてくれた。天然の要害という地理的特性が、時を貫いて島の運命を規定したのだ。
江華島に高麗の都が置かれていた頃、憤怒や怨嗟、無念に恐怖までが入り混じった苦渋がこの地に重くのしかかっていた筈である。その後も、江華島は外敵の侵入のたびに政治の表舞台に引きずり出される。江華島が担ってきた運命の変遷を思い、苦渋の表情を脳裏に描いていると、緑の芝に覆われた高麗宮址のがらんとした空間が、息の詰まるような濃密さをもって迫ってくるのだった。
多胡吉郎(作家)
(2014.5.7 民団新聞)