江華島の東側を流れる塩河江には、河口近くから草芝鎮、徳津鎮、広城堡と続く古い防塁がある。19世紀の中後半、鎖国を続ける朝鮮王朝に開国を迫って列強の軍艦が襲来し、激戦の舞台となった所である。
日本との関わりでは草芝鎮が必見だ。1875年、河口から侵入した軍艦雲揚号との間に熾烈な砲火が交わされた。その結果、翌年には江華島条約が結ばれ、朝鮮は開国への道を余儀なくされる。実際に訪ねてみると小ぶりの造りで、石積みの壁が川に面して楕円形に張り出している。石垣や松の木に残る砲弾の痕が激戦を生々しく物語る。
3つの防塁はいずれも17世紀半ば、朝鮮王朝第17代王の孝宗によって整備、築造された。孝宗はまだ王子だった頃、清軍の侵攻に朝鮮が屈した結果、瀋陽で8年の幽囚生活を送らねばならなかった。1649年に王位につくと、軍拡を進め国防の充実に努める。若き日の屈辱を忘れず、清への怨讐を胸にたぎらせた孝宗は、国の備えの必要性を誰よりもよく心得ていた。
3つの防塁のうち、最も見ごたえがあるのが広城堡だ。孝宗以降に築造された軍事施設を含め、6000平方㍍に及ぶ広大な要塞になっている。ここは1871年に起きた辛未洋擾の激戦地で、ロジャース少将率いる1230人のアメリカ兵が草芝鎮、徳津鎮を占領した後に上陸して、朝鮮の守備隊と白兵戦を繰り広げた。時は第26代王・高宗の父として実権をふるった大院君の世で、押し寄せる外国勢力には徹底した攘夷で臨むのが国の方針だった。
士気は充実していたが、最新兵器で武装した米軍に対し、朝鮮軍の旧式な武器ではいかんせん歯が立たない。守備隊を率いる魚在淵は敵兵が迫りくる中、「我らには退く所とてなし。万死をもって戦え」と檄を飛ばし奮戦したが玉砕する。朝鮮軍は次々と斃れ、犠牲者は350余人にのぼったともいわれる。
現在の広城堡は公園化され、川沿いの景勝地として散策を楽しむ人が多い。按海楼の城門をくぐって道なりに行くと、やがて魚在淵らを顕彰する双忠碑閣や辛未殉義塚など、犠牲者を悼む碑や墓が現れる。さらに進むと、砲台やいくつかの 台に出会った。 台とは海岸地域に築かれた小城塞、防衛施設をいう。最も奥にあるのが龍頭 台で、その名の通り、川に龍の頭が突き出た形の砦である。
近づくにつれ、彼方から地を震わすような轟音が迫ってきた。何事かと思ったが、音の正体は砦の先の川がたてる水音であった。ちょうど上げ潮で、怒涛と呼ぶにふさわしい激しさで河口から水が押し上げられてくる。轟々と唸り、岩にぶつかって飛沫をあげ渦を描く。これほどの激しさで潮が満ちてくる川を見たことがない。
この潮流の激しさが、かつては江華島を天然の要害に仕立てたのだった。だが私には、逆巻く激流が朝鮮王朝の末期、この国を襲った時代潮流に重なって見えて仕方なかった。近代を旗印に押し寄せる外圧に呑み込まれ、もがき苦しむことになる朝鮮…。苦衷はまさにこの激流に始まったのだ。荒々しい川面を前に、しばらくは動けなかった。
多胡吉郎(作家)
(2014.5.28 民団新聞)