南の端のその島まで、まさかソウルから直行バスが出ているとは予想もしなかった。5時間半でバスは全羅南道の莞島に着く。遥かな島を訪ねたのは一人の英雄の面影を探るためだ。張保皐。ドラマ「海神」の主人公として、その名を知る人も多いだろう。
時は9世紀、統一新羅の時代‐。朝鮮南岸の貧しい家に生まれた男が、唐の山東省に渡って武功をたて徐州軍中小将となり、祖国に凱旋する。新羅から多くの奴隷が唐に売られている現実を興徳王に訴え、王から清海鎮大使に任命されて、海賊による奴隷貿易の駆除に乗り出す。
その後は莞島の清海鎮を拠点に、日本から中国まで、船団を率いて海を往来し交易に生きた。この時期、東アジア一帯の海域は張保皐の海だった。波乱に満ちた風雲児の記録は『新唐書』や『続日本後記』にも登場し、国を越えた活動を裏づける。スケールの大きな活躍は、海を渡る風にも似た自由の気をはらむ。
だが興徳王亡き後、張保皐は新羅の王位継承問題に巻き込まれ、やがて自分の娘を王妃につけようとして失敗、暗殺された。841年、50代半ばだったと言われる。
莞島のバスターミナルからタクシーで張保皐記念館に向かった。20分ほどで海沿いの記念館に着く。張保皐の船が再現され、その生涯と活動が工夫を凝らした展示で紹介されている。驚いたのは張保皐の船団が通った海路を描いた地図だ。東は九州の博多、西は山東半島の赤山、長江沿岸の揚州、南の寧波を主要交易地としつつ、さらにそこからインドやアラビアまで交易の航路が伸びている。
張保皐の活躍を土地ごとに人形を使って展示したコーナーが面白い。山東半島の赤山では、一人の僧侶が張保皐と会釈をしている。838年から9年間、唐で修行を積んだ日本人僧侶の円仁だ。日本を発つ際には短期滞在の資格しかなかった円仁に、その熱意を汲んで長期の留学を可能にさせ支援したのは、張保皐と船団の人々であった。
もっとも、円仁が著した唐留学の日記『入唐求法巡礼行記』には直接張保皐と対面する場面は登場しないので、実際に両人が会ったかどうかは確かでない。記念館の展示は事実のディテールを超えて、両者の深い結びつきを視覚化したものだろう。
記念館を出て、湾の先にある小島へ向かった。かつて清海鎮が置かれていた所だが、今では歩行者用の橋が渡されている。島はゆっくりまわっても30分ほどだ。所々に門や東屋が築かれているが、いずれも近年に復元されたもので、往時から伝わるのは井戸の跡くらいのものだ。賑わいを見せていた館や倉庫、店などは跡形もない。張保皐の死後、新羅は清海鎮の閉鎖を決め、国際貿易のハブとしての地位と栄光はあえなく潰えてしまった。
何もない島で、しばらくは海に向かってたたずんだ。高台から眺める群青色の海が美しい。この海原の景色ばかりは、当時に変わらぬことだろう。この海が日本の博多にも、中国の赤山や揚州、寧波にも通じていたのだ。海原を渡る風が心地よい。張保皐がまとう自由の気に触れ、心がひろびろとしてきた。
多胡吉郎(作家)
(2014.6.11 民団新聞)