済州市の一角に、人々が待ち合わせに使うなどメルクマールになっている古い建物がある。観徳亭。1448年、朝鮮王朝第4代王の世宗の御世に、兵士の訓練のために建てられた。済州島に残る最古の木造建築物でもある。
観徳亭はもともと島を治める官庁機関、済州牧官衙の一部を占めていた。この牧官衙が近年復元され観光名所になっている。門をくぐって中に入ると、なかなかに広い。統治責任者である牧使の執務した延曦閣を始め、弘化閣、友蓮堂など、主要な建物が復元されている。
朝鮮王朝518年を通して、済州に286人の牧使が任命された。任期は2年半だが、任期満了前に更迭となる場合も多く、平均在任期間は1年10カ月ほどであった。主な仕事は朝廷に納める馬やアワビ、柑橘類など、島の特産品の徴収だが、島自体を搾取の対象としか考えない牧使も少なくなかったという。
敷地内の奥まった所に、ひときわ高く堂々とした楼閣がたっている。望京楼。都の方角の空を仰いで王の恩徳を讃える場所とされるが、当人の胸を占めていたのは、王への敬慕以上に都恋しさの懐旧の情であったろう。
望京楼の中に入ってみて驚いた。『耽羅巡歴図』という、300年ほど前の済州島各所の様子を描いた絵図集の展示館になっている。1702年に牧使として赴任した李衡祥が、島を巡歴した際の見聞の様子を絵師の金南吉に描かせたもので、40枚の絵と1枚の地図からなる。
これが実に面白い。滝の名所、天地淵瀑布など自然の景勝もさることながら、風景画だけでなく、馬や柑橘類の進上の様子などを描いた記録画に近いものもある。朝鮮時代の済州を知る超一級のヴィジュアル資料であり、島の暮らしや風俗を色彩も豊かに生き生きと伝えている。
「屏潭泛舟」と題された絵では、龍頭岩付近での海女の潜水の様子も見てとれる。今に続く済州島名物、海女が登場するだけで嬉しくなってくる。
李衡祥は済州島に愛着を抱いた奇特な牧使だったと言えるだろう。『南宦博物』という島の地理誌も著している。収奪の対象として蔑みの眼差しで島民に向かう悪代官などではなかったのだ。
だが、事はそう単純でない。牧使の仕事の一つに儒教的教義や倫理をもっての島民の教化があるが、職務に忠実な李衡祥は、島内に多数存在していた仏教寺院やシャーマニズム的な巫俗信仰のいっさいを禁じた。
海女に関しても、裸体に近い恰好で仕事をするのは問題だとして、儒教倫理に厳格であるべき男性の潜水漁労を禁じている。女性に関しては着衣の上ならと許可したが、これは儒教の男性中心主義によるもので、伝統の海女の仕事に敬意が払われたからではなかった。
そこまでのことを知って改めて『耽羅巡歴図』を見ると、その編集方針に一点の悪意もない分、かえって朝鮮時代の済州島の位相が端なくも表れていることに気づく。牧使によって編纂され、今や復元された牧官衙を飾る絵図に塗り込められたものは、いかにも意味が深いと言わざるを得ない。
多胡吉郎(作家)
(2014.7.16 民団新聞)