「憎悪、敵意、粗暴は、弱さの所産である/弱者が自分以上の弱者を餌食にするときの、あの酷薄さ!」。沖仲士であったことから波止場の哲学者と呼ばれたエリック・フォッファー(1902〜83)の言葉である。
ネオナチやヘイトスピーチ(憎悪表現)を語る際、よく引用される。まさに箴言であろう。だが、弱者をいたぶるあなた自身が弱者なのだ、と言われて己を恥じ、弱者はお互いを労り手を差し伸べ合うべきだ、と諭されて目覚める若者がどれほどいるのだろうか。
日本の大学生を対象にしたある調査では、自らの傷つきやすさを強く意識していればマイノリティーの権利擁護や差別からの保護の主張に対して共感するかと思いきや、むしろ複雑な反応を示す傾向があるという。この国の正規の一員である自分が将来に不安を抱えているのに、なぜ、非正規のマイノリティーだけが擁護だの、保護だのの対象になるのか、違和感や反発が少なくないのだとか。
率直と言えばそうなのだろう。知識や想像力が欠けていると言えばまた然りであろう。よく言われる「弱者はもう一段下に弱者を置いておきたがる」心性でもなさそうだ。一人ひとりは温和で気弱にも見える人が少なくないという「在特会」の苗床も、そんな歪んだ不平等意識にあるのかも知れない。
多様な思想や言説がせめぎ合うなかで醜悪なヘイトスピーチは自ずと淘汰される? しかし、それを可能にするのは理屈より日本人としての自尊心だろう。よその国を笑う前に自問すべきだ。そう言いかけて、それもまた、自尊心がなければできないことだ、と思い至るのは辛い。(G)
(2014.7.30 民団新聞)