漢拏山を左手に見ながら南に向かった。目指すは大静邑にある金正喜流配址。朝鮮王朝末期の実学者で、済州島に流刑になった金正喜が配所暮らしを送った場所である。
敷地内に入ると、藁ぶきの家屋がいくつか並んでいる。金正喜が起居した家や、近在の青年たちに学問を教えた棟など…。やがて、先生に引率された高校生たちがぞろぞろと現れた。罪を問われて島流しにあった人物ではあっても、ここは若者たちが学ぶべき偉人の旧跡なのだ。
金正喜(1786〜1856)は北学派の実学者・朴斎家に早くから才を認められ、その影響下に学を積んだ。書画の大家としても知られ、金石学(碑文の考証学)でもすぐれた業績を残している。
1840年、55歳の時に政争に巻き込まれ、済州島へ配流になった。亡父が生前に関与した事件の問責が蒸し返され、息子の金正喜が罰を受ける羽目になったのである。島での流刑生活は8年3か月に及び、2年がすぎた頃には妻の訃報に接する悲しみも体験しなければならなかった。
朝鮮王朝時代、本土から遠く離れた済州島は重罪人の配流先だった。基本的に政治犯なので身分の高い者が多く、苛烈な党争に敗れ、罪なき罪によって配流になった者も少なくなかった。こうした流刑者の多くが学問を教えるなど、地元の人々に尽くした。 当代の一流人士が配流先で知や学の種を撒き、師と仰ぐ人々が熱心に学ぶ‐。これはこれで、済州島のまぎれもない歴史風景なのである。
金正喜の旧家に隣接して、遺品や資料を集めた済州秋史館が2010年に開館した。秋史は金正喜の号だが、韓国では本名以上に秋史先生として高名である。秋史体という独自の書体を生み出した書聖として尊敬されてもいる。
なるほど、中に入ると墨の印象が際だつ。「無量壽閣」の大きな4文字が目を射るが、流刑の身ながらも請われるままに礼山の華厳寺に送った扁額の書であるという。
書に加えて画もよくしたが、最高傑作とされるのが「歳寒図」だ。師弟間の義理を忘れず済州島まで貴重な本を送ってくれた弟子の李尚迪に送った書画だが、「字が詩であり、詩が絵である」とした秋史金正喜の孤高の境地がよく表れている。
画に描かれたのは配流先の家と木々だが、跋文の中に、「寒くなり他の木々が枯れた後になって、初めて松がいつも青いことを知る」とあった。逆境に至って初めて弟子の変わらぬ真心が身に沁みたとして、李尚迪の志操を讃え感謝したものだが、孤独の配所暮らしの中でそのような「青さ」を感得した金正喜の心映えもまた、枯れることのない「青さ」に輝いている。
そう思って改めて秋史体の字を見ると、何かを突き抜けたような晴れやかさがある。時に笑いを誘うユーモアさえ感じさせる。字の見事さは、間違いなくその人となりの天晴れさの表れである。
孤独な配所暮らしの中にあって心を澄まし、精進を重ねて思想や芸を磨いたその人の努力には脱帽以外にない。だが同時に、これだけの人材が都にあって力を発揮し続けたならばとの思いが、胸をかすめてならなかった。
多胡吉郎(作家)
(2014.7.30 民団新聞)