済州島南西部、山房山の絶壁の下にその海はある。名前の通り、龍の頭の形に岬が突き出た龍頭海岸。岬の付け根に帆船が見える。オランダ人ハメルが漂着した所だ。
1653年夏、長崎出島を目指していたオランダ商船デ・スペルウェール号は暴風雨にあって難破し、この海岸に打ち上げられた。乗組員のうち死を免れた36人が上陸したが、その中に東インド会社(VOC)の簿記係、ヘンドリック・ハメルもいた。
朝鮮は厳格な鎖国体制を敷いており、捕らえられた一行は全員が鎖でつながれて済州官衙へと送られる。だが、そこで意外にも心やさしき人物が現れる。時の済州牧使、李元鎮。徳望があり、済州島最初の地誌となる『耽羅志』の著者でもあった。
李元鎮は、米と塩だけだった食事に副食物を追加するなど、ハメルらを厚遇した。時には宴会を開いて、漂流者の「哀しみを忘れさせようとした」と、ハメルは述懐している。だが李元鎮はほどなく帰任し、新任の牧使は厳しい姿勢に徹して、副食物も支給されなくなってしまう。
海岸へと下る丘の中腹にハメル記念碑があった。韓国国際文化協会とオランダ海外文化財団が、1980年にたてたものだ。ハメル漂着の意義が近年になって両国の間で見直されている証である。海際に復元された帆船も、ハメル漂着350年を記念して2003年につくられた。
ハメル一行は都に連行され、時の王孝宗に拝謁する。王の前で歌や踊りを披露したというが、孝宗は西洋からの珍客にさほど興味を示さなかったようだ。それでも訓練都監に配属させ西洋式銃器を使った訓練に参加させたのは、軍備拡充の一助にしようとの考えからだったろう。
オランダ人の存在は次第に朝廷にとって重荷と化していく。一行はその後、全羅道に送られたが、そこでの抑留生活は苦しいものだった。
1666年、ハメルら8人が小船で脱出、日本の五島列島で保護された。江戸幕府による外交交渉で、朝鮮に留まっていた残りの7人の引渡しが決まり、15人がオランダに帰国を果たす。13年に及ぶ朝鮮での体験をハメルが記した『ハメル漂流記』(『朝鮮幽囚記』)が刊行されたのは1668年、コリアという国が初めて本格的に西洋に紹介されたのだった。
龍頭の岬を磯づたいにまわった。平場から眺める海原はうねうねと盛り上がり、白波をたてて咆えるかのようだ。時々ざぶりと荒波が磯に乗りあげ、飛沫を散らす。
当時、オランダは世界貿易の覇者であった。スペインやポルトガルと違い、交易に際し経済と宗教の分離がよくできていた。だが朝鮮がせっかくの機会を充分に活かしたとは言いがたい。もし朝鮮王朝が済州島に長崎出島のような特区を設けオランダに門戸を開いていたなら、ジャワ、長崎、済州の三角貿易すら可能だったかもしれないのだ。
その海は、かけがえなき「East Meets West」(東西の出会い)の現場である。黒潮が運ぶ豊かな宝を秘めている。新羅の張保皐のような傑出した海の商人がこの時代にいたなら…海原を見つめながら、想いは千々に揺れた。
多胡吉郎(作家)
(2014.8.15 民団新聞)