済州市の国立済州博物館の北、紗羅峰公園に入ってすぐの所に、その人の墓はある。済州の女性商人、金万徳(1739〜1812)。恥ずかしながらイ・ミヨン主演のドラマ「キム・マンドク」を見るまでその存在を知らなかったのだが、その人となりに触れて以来、いつかゆかりの地を訪ねたいと思っていた。
男性中心主義の朝鮮王朝時代、女性でありながら商人として成功を収めた点にも興味を覚えたが、済州島が飢饉に見舞われた際、慈善活動によって島民を救済したというエピソードに強く惹かれた。
墓を目指して進んだが、まず目についたのは、万徳館というその名を冠した記念館だった。後世の想像画ではあるが、いかにも徳高く気品ある婦人に描かれた肖像画が、訪問者を入り口で出迎える。館内の四面の壁も大きな絵で埋め尽くされ、その生涯をわかりやすく説明している。
金万徳は12歳の時に両親が死去、孤児となって教坊に預けられ、長じて妓生となった。人気を博したらしいが、万徳は妓女であることを嫌い、23歳の時、官に訴えて妓籍から外してもらう。その後は商売を営み、倹約にもつとめて財をなし、済州島でも指折りの大商人となった。
1792年から94年にかけて島では凶作が続き、とりわけ94年は餓死者を出すほどの大飢饉となった。この時、金万徳は全財産を投じて本土から糧穀を買い求め、貧民に配ったという。
墓は万徳館の横に、ひっそりとたっていた。人柄を象徴するような素朴なたたずまいだ。「行首内医女金万徳之墓」と刻まれている。医女とされたのには訳がある。
金万徳の慈善行為は朝廷にも伝えられ、時の王、正祖(イ・サン)の心をとらえた。王は善行を讃え、褒美に何を望むかと尋ねさせた。万徳は宮中訪問と金剛山の見学を願い出る。正祖は万徳を招くにあたって「内医院医女班首」の官職を臨時に授け、その肩書によって宮中への出入りを許した。済州島の女性として、初めて本土訪問が許されたケースだったという。
墓から坂道を少しのぼった所に、オベリスクのような立派な塔が聳えている。近年にたてられた金万徳の顕彰記念碑だが、台座の側面に埋め込まれたレリーフには万徳が正祖に拝謁する場面も登場する。正祖がいかにも満足げに微笑む様子が印象的だ。
済州島を救ったきっぷのよい女商人と、その心を汲んで讃えた朝鮮王朝後期きっての名君と、役者が揃ったというか、実に晴れ晴れとした名場面である。
実はもうひとり、この縁につらなる済州ゆかりの人物がいる。前々回に紹介した、済州島に配流になった実学者の秋史金正喜。金万徳の貧民救済の話を聞いて感激した金正喜は「恩光衍世」の4字を大書し、万徳の孫に贈った。「恩恵の光は世に広まる」‐。万徳を讃えるに、正祖との逸話や、官僚たちが万徳を賞賛する詩文を献じたことを踏まえて言っている。
金万徳、正祖、金正喜と、「天晴れ」がエコーし合うようで心地よい。その天晴れの木霊を受けとめるように、漢拏山が午後の日差しを受けてやさしく微笑んでいた。
多胡吉郎(作家)
(2014.8.27 民団新聞)