蔚山から南下して1時間、田舎道でバスは止まった。案内板に従って進み、農家の裏手にまわって驚いた。山の頂きに向け石垣が一直線に伸びている。登り石垣と呼ばれる独特な築城方式だ。
西生浦倭城‐。壬辰倭乱(文禄慶長の役)の際、秀吉軍は朝鮮南岸に30を超す城(倭城)を築いたが、その中で最大規模となる。1593年に加藤清正が築城し、海抜133㍍の山頂に天守閣を含む本丸が、海に向かう東斜面の山腹に二の丸が、麓に三の丸が置かれた。
入り口に管理事務所がありガイド氏が山頂まで案内してくれる。ポイントごとに解説板が置かれ、韓日両国語で記されているのがありがたい。 解説板には登り石垣を始め、日本での城ブームで耳にする専門用語が度々登場する。何せこの西生浦倭城、戦国時代の山城の面影を残しつつ、江戸時代の平城につなぐ時期の築城技術を結集した歴史的価値の高い城なのだ。
とはいえ、韓国人から見れば祖国を侵した敵軍の砦だった所である。蔚山市から派遣された女性ガイド氏に「日本が建てたので複雑な感情もあるでしょう?」と尋ねてみたが、「壬辰倭乱の後、朝鮮人戦死者を慰霊する蒼表堂が建てられましたが、日帝時代に壊されてしまいました」と、倭城の是非を避けるように答えた。私が尋ねたような疑問は既に何度となく問われた上で、蔚山市は歴史スポットとして整備を決めたのだろう。 小道をしばらく登ると、大手口が現れた。ここから山頂に向け、いよいよ城跡は密度を濃くしてゆく。門や櫓など建物は既にないが、石垣はほぼそのままに残っている。築城名人と言われた加藤清正の手になるだけに、防禦の工夫が随所に見られる。虎口(敵兵を左右に振らせて惑わせる空間)を形成する石垣の自在な組み合わせや、上に行くほど傾斜が鋭くなる石垣の積み方など、清正が帰国後に建てた熊本城の原型がここにあることを実感させられる。
1594年、一人の朝鮮人僧侶がこの城を訪ねた。四溟堂惟政(松雲大師)‐。義僧兵の指揮官でもあり、戦後には日本を訪れ、徳川家康と交渉して民間被虜者の帰還を成功させた人物であるが、清正は「朝鮮では貴公だけが偽りがない」と信頼を寄せ、交渉を重ねた。
実はこの頃、小西行長が明の沈惟敬とともに独自に和議を探っていた。明の皇女が天皇の妃となることや朝鮮南部の割譲など、秀吉の示す講和条件がおよそ受け入れられないものと知って、敢て秀吉を騙してでも停戦に持ち込もうとしていた。
この交渉に疑問を抱いた朝鮮政府は惟政を派遣して清正から秀吉の本音を聞き出し、小西の虚偽を知る。清正は小西が秀吉の意に反して交渉を進めている事実を知って驚愕し、その奸計を憎んだ。清正と小西、そして小西の背後にいる石田三成との対立は決定的となり、これが後に関ヶ原の戦いの遠因となっていく。 城塞は完膚なきまでに堅固であった。しかし一人の外交僧を送り込んだことで心理戦が功を奏し、秀吉軍に大きな亀裂が生じた。歴史舞台としての西生浦倭城の存在意義は、幾重にもひだを重ね、奥深い。
多胡吉郎(作家)
(2014.9.24 民団新聞)