どの国の歴史にも英雄がいる。韓国(朝鮮)の長い歴史を俯瞰した時、この人も間違いなく五指に入るであろう。新羅による三国統一の牽引者、金庾信将軍(595〜673年)‐。金春秋(武烈王)の外交がいかに卓越したものであれ、戦場で敵を倒し覇権を広げたのは、この人の功あればこそであった。
新羅の古都慶州は、この不世出の英雄の記憶を今も大切に守り続けている。市外バスターミナルから橋を渡って兄山江ぞいに15分ほど下り、左折した丘の上にその人の墓所がある。ドラマ「善徳女王」が放送されてからは、訪問者が増えたそうだ。
参道の先に、石の欄干に囲まれた墳墓が見えてきた。慶州では見慣れた円墳である。墳墓を前に、左右に石碑がたっている。左の碑には「新羅太大角干金庾信墓」と刻まれている。668年、金 信は文武王から、新羅最高位の官職「大角干」の上に「太」をつけた「太大角干」の官位を与えられた。
この年は、新羅が高句麗を滅亡させ、三国統一への道を決定づけた年である。660年に百済を滅ぼし、663年には百済残党と倭軍の連合軍を殲滅した名将のさらなる武勲に対し、王は最高の上にも最高だとする特別の栄誉をもって讃えたのだった。
右側の碑には「開国公純忠壮烈興武王陵」とある。835年、死後150年以上もたって「興武大王」と追尊されたことを示す。王と同列に祀りあげられたのである。
『三国史記』は12世紀に書かれた歴史書だが、金庾信の伝記に他に例のない3巻を割いている。三国時代から統一新羅末までの最大の英雄として扱っているわけだ。
曰く、花郎(新羅の若武者)となり山中で修業を積んだ頃、天から星が降りて金庾信の剣に宿り、この宝剣の力によって新羅の快進撃が導かれた…。神格化された逸話ながら、武ひと筋に生きた男の生きざまは伝わってくる。
また最晩年、高句麗を倒した後に唐との間に緊張が高まった折、大国との対決にひるまず、躊躇する王に交戦を進言したというくだりは、天下の大将軍の不動の覚悟を見せられるようで頼もしい。
面白いのは、この人の複雑な出自だ。532年に新羅によって滅亡、併呑された金官伽耶(加羅)の王家の血筋を引いている。つまり、金 信は新羅のサラブレッドではなかったのだ。被征服者出身としてのハンディが、獅子奮迅の活躍のバネになったのではなかったか。
墓は代表的な王族のものに比べると小ぶりである。しかしそれを補うように、円墳の基底部を12支神像のレリーフが取り囲んでいる。死者を守る12支神はどれも立ち姿で、手に武器を携えている。
ちょうど、就学前と思しき少女が父親に連れられて訪れていたが、レリーフを動物の漫画のように感じたらしく、ひとつひとつ、目で追って楽しんでいた。
「アッパ(お父さん)見て、お馬さんだよ。ほら、こっちはヒツジさん!」‐。古代の英雄の墓所に、現代っ子の黄色い声がこだました。この子もまた、はるかな新羅の末裔であろう。草葉の陰の英雄も微笑んでいるように見えた。
多胡吉郎(作家)
(2014.10.8 民団新聞)