リンゴ畑を見ながら聞慶に着いた。目指すは町はずれのセジェ。鳥も越えるのが難しいとされた峠道。鳥嶺とも呼ばれ、慶尚道方面を嶺南と言うのはこの峠より南の地域だからだ。峻厳な難所として天下に名高く、交通はもとより、流通や防衛を含め、朝鮮随一の要衝の地であった。
多くの人々がこの峠を越えた。都鄙を往復する官吏、褓負商と呼ばれた行商人の隊列、日本に向かう朝鮮通信使の一行、壬辰倭乱の際には秀吉軍もここを越えた。だが今日、峠を越えた者たちの中で特に強調されるのは、人材登用のために国が行う科挙の試験を受けに都にのぼるソンビ(士大夫)たちである。
道の脇にソンビ像がたっていた。周りにはその暮らしを描いたレリーフが置かれている。読書や風流のたしなみ、官職の務め、セジェ越えの一景もある。秀吉軍と戦う義兵の指揮や農民の技術指導もあるが、これは多分に理想型を追った結果であろう。
セジェの関門に行きつく前に、ユニークな博物館ができている。昔の道博物館‐。ここでの主役は文字通り「道」。朝鮮全土に張り巡らされた街道の図示を始め、当時の旅人の出で立ちや持ち物、各種の地誌などの展示が主だが、飽きさせない。「道」をテーマにしたコンセプトが生きている。聞慶セジェという朝鮮随一の峠から眺めることで、徒歩で人々が往来した時代の道の意味がおのずと見てとれる。
博物館を出て道を歩いた。やがて峻嶮な山並みを背に堂々たる関門が見えてきた。「主屹関」の扁額を掲げた楼閣の下をくぐると、裏側には「嶺南第一関」の扁額が掲げられていた。いかにもここを第一関門として、三つの関門が峠道に沿ってたつ。第二関門の鳥谷関までが3㌔、そこから第三関門の鳥嶺関までが3・5㌔になる。第二関門までは比較的緩やかだが、そこから厳しい山道になる。
主屹関を過ぎ、いよいよ聞慶セジェの峠道へと足を踏み入れた。燦々たる陽光を受けて道は白く輝き、木々の枝葉が影を落として斑紋様を描く。高みから鳥の声が降ってくるが、木立が切れると傍らを流れる川の音が迫ってくる。ところどころ、巨大な奇岩が現れて目を奪う。
自然の中の道を行くだけでも爽快だが、博物館での見聞が胸を弾ませている。青雲の志を抱いて考試に向かう昔日のソンビや、重い荷物を担いで都にのぼる行商人の足どりに重ねるように、私も古い道に歩みを記して行く。
しばらくして、官吏のための宿所だったという鳥嶺院址に至った。かつて聞慶セジェには官吏用の駅や院、一般人用の店や酒幕など、宿泊施設が多数存在していた。疲れた足を休め、飯や酒をせがむ旅人の声が聞こえてきそうだ。
足で踏み、確かめる歴史がある。踏査という言葉があるが、現場を訪ね、足で取材することで見えてくるものは多い。私にとって聞慶セジェは、そのことを改めて教えてくれる道でもある。
歴史を訪ね各地に踏査を重ねてきた。道をだいぶ来たには違いないが、まだまだ続く道を、そこでの様々な出会いを楽しみにしたい…その願いを励みに、峠への道をしかと踏みしめて進んだ。
多胡吉郎(作家)
(2014.10.22 民団新聞)