一千万都市、ソウル。高層ビルが林立するこの町は、朝鮮王朝500年の都だった古都でもある。景福宮、昌徳宮など旧王宮は観光客で賑わうが、歴史の足跡は町の処々に刻まれている。町を歩けば歴史の語り部との思わぬ出会いが待っている。路傍に置かれた史跡表示の碑石のことだ。
参鶏湯の老舗、体府洞の「土俗店」からの帰り道、大通り沿いに世宗大王生誕地の碑を見つけた。世宗が生まれた当時、父の李芳遠(後の太宗)はまだ王位に上がっておらず、世宗は宮中ではなく西村と呼ばれるこの地区の私家で生まれたのだった。
李芳遠も父王李成桂(太祖)の5男で、世宗はその3男坊だったので、ここで男の子が生まれた時、まさかその子が後に王になり、まして聖君と言われる不世出の大王になろうとは、誰も想像しなかったことだろう。
明洞聖堂からPJホテルに向かって歩いていると、明宝アートホールの前で李舜臣の生家跡の碑に出会った。南の海で活躍した水軍の将も、かつては都の人だったのだ。地下鉄の駅名にもなっている忠武路が、忠武公李舜臣の生まれた場所ゆえに名づけられたことを、改めて知った。
碑石はだいたいが高さ幅ともに90㌢ほどで、韓国では標石と呼ばれ、ソウル市内に335個が設置されている。説明文は韓国語だが人名は漢字でも記され、碑の主が誰であるかはわかりやすい。
時には予想もしない意外な場所で碑石に出くわすこともある。骨董街の仁寺洞から益善洞の伝統茶屋「トゥラン」に向かう途中、横断歩道の中央分離帯で趙光祖の旧居址の碑石を見つけた。信号が赤に変わらぬうちにと、慌ててカメラのシャッターを切った。
趙光祖は士林派と呼ばれた儒者官僚の代表格で、改革を唱えて中宗の信任を得た。だが対立する勲旧派に疎んじられ、陰謀により失脚、賜死となった。住まいの面影は跡形もないが、アスファルト道路の中央に碑石だけが遠い歴史をそっと物語る。
機関や組織も碑の主役となる。鐘閣の真向かい、高層ビルの前で知人と待ち合わせをした時のこと。ビルの前の植込みの隅に、義禁府跡の碑石を見つけた。義禁府は日本でいうお白洲、国事犯の取り調べの場だ。白衣の被疑者が椅子に括りつけられ厳しい尋問を受けるさまは、ドラマでもしばしば登場する。容赦のない責め立てで苦悶の悲鳴がこだました場所が、今や外資系の銀行も入る巨大なオフィスビルになっている。
まわりはビルがひしめくコンクリートジャングルである。車が行き交い、都市の喧騒が唸りをあげる。その狭間に、我知らずという顔でひっそりと碑がたっている。気づかなければ、そのまま通りすぎてしまうだろう。だが、碑石を知ることで風景は一変する。長い眠りについていた時の記憶が息を吹き返す。
ソウルは歴史の煮凝りのような町だ。都市が秘める記憶の脈を探り当てることは、600年を貫くソウルのDNAを知ることでもある。旅とは出会いと発見の舞台だ。歴史を知れば知るほど、その舞台は輝きと醍醐味を増す。さればはるかなる風に吹かれて、韓国を行く歴史の旅はこれからも続く。
(2014.10.29 民団新聞)