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抵抗強い内面評価
態度変えた中教審…気になる安倍氏の価値観
日本・文部科学省の諮問機関である「中央教育審議会」(中教審)は先ほど、小中学校で「教科外の活動」とされ正式な教科になっていない「道徳」を「特別の教科」に格上げし、児童生徒を数値ではなく記述式で評価することなどを答申した。検定教科書を導入し、早ければ2018年にも実施される。
教育の中身と方法、激しい論議は必至
文科省は今年度中に学習指導要領を改訂し、16年度末までに教科書の検定を終えたい意向という。「特別の教科」化については難点が多いとされ、スケジュールの進展とともに、特定の価値観を押しつけることにならないか、教育の中身と方法について激しい論議が行き交うことになろう。
現行の「道徳の時間」は1958年から始まった。人間尊重の精神、生命に対する畏敬の念、伝統・文化の尊重とそれらを育んだ国と郷土への愛、公共の精神、他国の尊重、国際社会の平和・発展や環境保全への貢献などを掲げ、「未来を拓く主体性ある日本人を育成する」ことを目標としている。
だが、週1時間、年35時間を標準としているにもかかわらず、学級会などに便宜的に使われるケースが多く、形骸化していたという。しかし、「形骸化」とはためにするもの言いで、徳育は学校教育のさまざまな場面で行われるのが効果的だという判断から、「教科外の活動」に位置づけられた事情をそのまま反映したに過ぎないとも言われる。
そうしたゆるやかさは、外国籍や外国にルーツを持つ子弟にとって悪い環境ではない。「他国の尊重」が盛り込まれているとはいえ、「主体性ある日本人」の育成が主眼である以上、目標到達度が高ければそれだけ居心地が悪くなる側面は否定できないからだ。
徳育の格上げは安倍晋三首相の長年の悲願とされる。第1次政権時代の07年にも教育再生会議の提言によって教科化を目指したものの、個人の内面の評価につながるなどとして中教審に見送られた経緯がある。教育界の保守層にも、教科としては位置づけにくいとの意識が根強いとされる。
当時と比べて子どもや教育現場の環境に大きな変化がないにもかかわらず、同じ中教審が今回は目立った異論をはさむこともなく、教育再生会議の提言どおりに教科化を答申した。第2次安倍政権の勢いの産物と見られている。
安倍首相はこれまで、歴史修正主義的な立場を強め「日本を取り戻す」、「戦後レジームからの脱却」といったフレーズを繰り返し口にし、靖国神社参拝も強行した。第1次政権時には、改定教育基本法に愛国心条項を盛り込んでもいる。こうした価値観から、首相のねらいは実質上、1947年に廃止された「教育勅語」や「修身」の復活かと騒がれもする。
ただ、軍国日本を築くうえで大きな役割を果たした「教育勅語」も、12の徳目のうち「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」(国難にあっては勇気を奮い永遠の皇国を助けよう)を除けば、字面を読む限りきわめてまともと言える。兄弟・友達は仲良く、信じ合い、勉学に励んで人格向上に努め、世のため人のために尽くすなどとあり、「博愛衆ニ及ホシ」(慈愛を広く全ての人に)ともあった。
ことほどさように、「道徳」教育には真のねらいや効果のほどは不明でも、立派な目的・目標が掲げられるのがふつうである。たとえ政権が特定の価値観を優越させ、子どもたちを思想統制する懸念があっても、世論の支持は得やすく、異論は唱えにくい。
課題へ対応めぐり推進側にも不安が
中教審もさすがに教科化への不安がないわけではなく、「特定の価値観を押しつけたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育がめざす方向の対極にある」といった指摘も忘れていない。指導要領にも情報モラルや生命倫理といった現代社会の課題にも対応するよう注文をつけている。
「教科書はどのような内容のものが出るのか」「教える方式は?」「教師の資質は?」「評価の基準は?」「受験への影響は?」など数ある疑問点について、論議がおいおい煮詰まっていくだろう。
それらとの関連で注目されるのは、答申が検定教科書を中心的な教材にするとしながらも、「民間の創意工夫を生かし、バランスの取れた多様な教科書を認める」と強調していることだ。
徳育については、家庭、学校、地域全体で施されるべきだとする声が多い。この論議はさておいても、徳育は各教科にまたがるどころか、学校外の社会生活とも日常的にかかわることで成立するものだけに、臨機応変の対応が求められてきた。教科書にしても、道徳一般を論述するだけでは薄っぺらなものにしかならず、多彩な参考例をあげることになろう。室外での実地教育を推奨することになるかも知れない。
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現実社会の中の徳育
排外扇動も念頭に…試される危機への〞本気度〟
勘違いしてないか戦後教育の犠牲者
中教審の答申を受けて書かれた朝日新聞と産経新聞のコラム(10月23日付)を対照させると実におもしろい。「天声人語」が取りあげたのは作家・三島由紀夫の『不道徳教育講座』だった。
「少年の悩みを大人は理解できない、いかに生きるかは自分で考えよ、教師に理解なんかされてやらないぞという気概を持て」「不道徳に慣れて抵抗力を身につけよ、なぜなら善良一辺倒な人ほど悪徳への誘惑に弱いから」といった「道徳が実は逆説をはらむことを読者に示す」内容を紹介、「徳目を一本調子に説教されても身につくものではない」と諭している。
「産経抄」は、「透明人間になったら何をしたいか」問われた小学6年生のなかに、「人を殺す」「強盗する」と答えた児童がいて、卒業文集にそのまま掲載されたことで大騒ぎになったことを起句に、「かわいそうに児童たちは、家庭でも学校でも、『人を殺してはいけない』ことを、教えられてこなかったに違いない」、「小学生のころから、社会の一員としての規範をきちんと教える必要がある」と押さえた。
まともな読み手ならこれだけで、「家庭や学校で教わらなくとも、人を殺したことはなく、本気で人を殺そうと思ったこともない。論旨の飛躍もはなはだしい」とあきれたことだろう。
それなのに、イスラム過激派「イスラム国」に戦闘員として参加しようとした大学生にも触れ、「彼もまた、徳育の欠如した戦後教育の被害者なのかもしれない」と締めくくったのには恐れ入るほかなかった。
都合のいい材料をテコに一足飛びに持論にむすびつけるのは、安倍首相とともに「戦後レジームからの脱却」に熱心な産経がよく使ってきた手法だ。ここで注目したいのはその点ではなく、「人を殺してはいけない」ことを「小学生のころから」「きちんと教える必要がある」と強調した部分である。
もちろん「道徳」の教科化をヘイトスピーチ(憎悪表現)に絡めて考えたいからだ。
「保守」と縁遠いのはもちろん、「国家主義」、「愛国主義」「民族主義」やいわゆる「右翼」にも括れない、言わば右翼の亜種とも言うべきネット右翼、それもネトウヨと蔑むにふさわしい集団が街頭にまで出張り、悪乗りして久しい。
その悪乗り現場やネット上に、「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮人。お前らを一匹残らずたたきつぶす」「南京大虐殺ではなく、朝鮮人大虐殺するぞ」などと「殺す」という言葉が溢れかえっている。
「産経抄」はなぜ、限りなくある事例から小学生の言葉を持ち出したのだろう。いずれにせよ、「イスラム国」に参じようとした26歳の大学生にも言及したのであれば、彼と同年代が多いヘイトスピーチ集団を、「家庭でも学校でも、『人を殺してはいけない』ことを教えられてこなかった」「かわいそう」な「戦後教育の犠牲者」の典型として取りあげるべきだった。
それだけで、「産経抄」はもちろん右派論壇で大きな位置を占める産経新聞の「真の保守」としての品格も上がったに違いない。それとも産経は、ヘイトスピーチ集団と持ちつ持たれつの関係にあるのだろうか。
「道徳」の教科化を推進する側に、ヘイトスピーチ集団の横行が念頭に入っていないとすれば、危機意識があまりにも足りない。それどころか、教科化の真の目的は何かまで問われるのは必定だ。逆に、ヘイトスピーチを許さない社会づくりを目的の一つに掲げるだけで、社会的な効果は大きく日本の国際的な位相も好転するだろう。
不満と憎悪との関係は単純でも直接的なものでもなく、憎悪がそれを呼び起こした対象に向かうとは限らない。むしろしばしば、まったく関係のない人物あるいは集団に集中する傾向がある。在日韓国・朝鮮人が不当に「特権」を享受しているゆえに日本人が被害を被っている、と主張するヘイトスピーチ集団がまさにそうだ。
憎悪はびこる性行すでに危険水位に
彼らに疎外感を抱かせ、困窮させたわけでもなく、ましてや迫害などしたこともない在日が憎悪の対象になっている。関係のない集団への憎悪をたやすくはびこらせる性行は、いとも簡単に別の攻撃対象を見い出すことになるだろう。実態はすでに危険水位に達している。
それでも、政府当局やメディアをはじめ市民社会が本気で対処すれば、ヘイトスピーチに比較的浅くかかわっている者、つまり大多数の者は一握りの戦闘的な部分を運動現場に残して、撤退するだろう。残された一握りが過激な暴力に訴えるとしても、いやその可能性があるからこそ、孤立・排除への環境を断固整えるべき段階にある。
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「他人の役に立つ」
日本人に限るのか…「共生」の教育効果 着目を
「道徳」の教科化が答申された数日後、この問題を考えるうえで興味深い材料が出た。大学共同利用機関である統計数理研究所が5年ごとに行っている「日本人の国民性調査」のことだ。1953年に始まったもので、13回目の昨年は無作為で抽出した20〜80歳の男女2170人に面接調査した。
発表によれば、日本人の長所を複数選んでもらったところ、「勤勉」「礼儀正しい」「親切」をあげる人が7割を超え、いずれも過去を大幅に上回った。また、たいていの人は「他人の役にたとうとしている」か、あるいは「自分のことだけに気をくばっている」かの問いに、「他人の役に」が前回の36%から10ポイント近い伸びの45%を記録、初めて「自分のことだけ」(42%)を逆転した。
この結果について研究所の関係者は、社会が成熟するにともない、ボランティアなどによる社会貢献が盛んになったことの反映と見ている。なかでも、東日本大震災時に見せた被災者の秩序だった行動、忍耐、ひたむきさのほか、助け合いの動きが全国に広がった影響が大きいという。
「他人の役に」と回答した割合は40・50代の責任世代で高かった。調査対象も20歳以上だ。それでも今回の結果は、助け合いやボランティアが踏ん張る現場を体験すること、あるいはつぶさに目撃することの教育効果の高さを示したと言える。小中学生に尋ねてもそう変わりはないだろう。
他人の役に立とうとする心を育てるのが徳育の基本だ。その「他人」が日本人に限られていいはずもない。現行の徳育も「国と郷土への愛」とならんで「他国の尊重」を目標に置いている。ここは一つ、身近な問題として外国人、なかでも定住外国人との助け合い、共生がもたらす教育効果にも着目して欲しい。
阪神淡路と東日本の大震災では、日本人と韓国、中国、ベトナムなど国籍や民族を意識することのない助け合いがあった。これこそ、日本人がふだんから外国人とうまく付き合ってきた共生の証であり、日本社会が誇りにしていいことのはずだ。
徳育には臨機応変や体験学習が欠かせない。答申でも教科書に「民間の創意工夫」と「バランス」を求めている。定住外国人が独自の文化を生かし、地域起こしに一役買っているケースは全国各地にある。外国人集住地域を訪れ、共生の実態を目の当たりにする学習の持つ意味は大きい。
世界を感動させるほどの忍耐心、秩序立った動き、思いやりが際立つ日本人社会は一方で、ヘイトスピーチ集団を産み育てる揺りかごを抱えている。この事実を直視し、前者をいっそう育てながら、後者を取り除く努力こそ徳育の眼目になるだろう。
(2014.11.5 民団新聞)