向かうところ敵なし、独裁者は庶民を統制し、イエスマンをぞろぞろ従えながら、やりたい放題私欲の限りを尽くす。
刃向ってくれば問答無用、親代わりの伯父さえも、一刀両断で亡き者にしてしまう。恐怖政治が21世紀にも続く事実を前にして、人間は自由と民主主義という条件がなければ、「考える葦」にはなれないことがわかる。
同じように、戦争は悲惨だと百も承知しているのに、なかなかなくならないのは、人間が過去の教訓から学ばないのではなく、優位に立たねばやられてしまうといった根底の脅えをぬぐい切れないからだろう。
独裁者は言論に目をつける。圧力をかけ、御用集団に貶める。その結果、国内は独裁者を仰ぐ提灯記事と、疑似敵国のバッシングで溢れかえる。焚きつけられるのは「愛国心」である。
号令一つで何万人が一糸乱れず動いたり止まったりを繰り返すマスゲームが登場する。足を上げる角度さえ寸分狂わぬ軍隊の行進が熱狂に拍車をかける。すべて独裁者とその取り巻きの作品である。
次に反対派を根こそぎにしようと、教育分野に力を入れる。都合の悪い過去は隠蔽するか、歪曲し、自らを美辞麗句で粉飾する。こうしてお上にたてつかぬ奴隷たちが次から次へと生産されていく。
君臨する独裁者を「裸の王様」としか見ない者がほとんどだろう。その異様さを指摘した一人の子どもの勇気で、正気を取り戻したおとぎ話程度の大人の常識があるからだ。
しかし、愚かなことに、独裁者の手法を真似る権力者はどこにもいる。「裸の王様」の虚構はやがて崩壊するが、「対岸の火事」と見るべきではない。(C)
(2015.5.13 民団新聞)