「世界遺産へ!」はためくノボリ
4月29日、新緑と満開のツツジに囲まれて、大阪から東京を目指し日本コースを歩き出した。韓国コースでは1145人(延べ人数)が歩いたが、日本コースの初日は日本隊23人(在日韓国人3人)、韓国隊13人に加え、1日参加のウオーカーら59人が歩いた。
大阪市役所から大川(旧淀川)の河川敷を通り淀川土手に上がる。ゴールデンウィークが始まり、バーベキューなどを楽しむ家族連れでにぎわう中を、ノボリ旗を持ちながら歩く私たちの姿に「何かしらねー?」と肉を焼く手を止める姿もあった。
かつて、通信使一行は、大阪からは幕府が用意した川舟に乗り換えて、両岸から綱引き人足が引っ張って京都まで進んだ。釜山から乗船してきた6隻の船は大阪で約100人の船頭と共にとどまった。
土手から河川敷に降りて左に川面を見ながら歩く。19℃だが、風があるので歩きやすい。
韓棟基さんは2年前に手をつないで歩いた永渕美乃里さん(13)を見つけた。少しはにかむその成長ぶりに目を細めて握手し、再会を懐かしがった。美乃里さん、今度は「ノボリを持ってカッコよく歩くのー!」と。ママのかおりさんと6日間歩くという。
30日は枚方から京都まで土手道と京街道を。通信使が下船した「渡場跡」の石碑を通り、住宅街の中に石垣が残る淀城跡では、韓国女性ウオーカーの金孝寧さん(58)が、盛んに石垣を撮影。外国旅行の撮影は、いつも自然の風景が多かった。ところが、歩いて見た日本では、人や建物、石碑など、歴史とそこに住む人々に目を引かれた。「心に刻み、忘れないように自分の思い出を記録します」。
たくさんのカップルや外国人観光客でにぎわう鴨川べりから三条大橋にゴールすると、冷えた缶ビールを用意して、旧知のウオーカーが歓迎してくれた。
「耳塚」前で黙祷
5月1日、京都での交流日には、今回も高麗美術館で通信使絵巻の美しい行列図を見せていただいた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で秀吉軍が犠牲にした朝鮮人の耳や鼻が埋められている「耳塚」では、韓国ウオーカー全員が黙祷、女性ウオーカーは嗚咽が止まらなかった。
2日、京都から草津へ。国道を進み、東海道旧道に入る。逢坂の関を過ぎて琵琶湖畔へ。心地よい風がそよぎとても気分よく歩く。韓国ウオーカーは自分の国には無い広大な淡水湖の、海のような広がりを堪能している。第一回朝鮮通信使の正使・呂祐吉の11代目の子孫、呂運俊さんは「ハラボジはこんな大きな湖を見てどんな感じがしたのかな。私も同じ景色を今見ながらこんなに驚いているんだから」と目を細める。
呂さんがそんな先祖の存在に気づいたのは20歳の頃。墓参りに行き、その墓標を読んでからだ。「ハラボジが書き残したものは何も残っていませんが、今回はとても楽しく有意義なウオークです」と波の音を聞きながら歩く。
滋賀県知事も
3日朝、出発式に三日月大造・滋賀県知事が駆けつけた。2年前の草津出発の際にたまたま居合わせ、遠藤靖夫・友情ウオークの会会長と「次回はぜひ参加する」との約束をしていた。朝鮮通信使研究の第一人者である仲尾宏・朝鮮通信使世界記憶遺産・日本学術委員会委員長から「通信使を記憶遺産に!」のノボリ旗を手渡された知事はノボリ旗を掲げ、「滋賀県は我々に日韓の間の誠信外交を教えてくれた雨森芳洲の生まれた場所。善隣友好の精神を生かすこのウオークが、ぎくしゃくしている日韓関係を、仲良くなろうという強い力になってくれれば、と期待している。世界記憶遺産登録にも力を注ぐ」とあいさつ。
仲尾さんが持つノボリ旗を先頭に「朝鮮人街道」に向かった。
朝鮮人街道は野洲市から彦根市まで中山道の北側にある41㌔の古道で、徳川将軍と朝鮮通信使だけが行列として通れた道。「平和と友好の象徴」としてこの道を通らせたとも言われている。
4日は朝から雨。安土城跡から旧道を行くと反対側から「伊達坂下し祭り(東近江市)」に向かう人たちとの思わぬ出会いにウオーカーたちは大喜び。雨も上がり若者たちの神輿を揺さぶる熱気に拍手を送った。彦根では通信使が宿泊した宗安寺や彦根城を見て回った。
5日は彦根市南で朝鮮人街道から分かれて中山道へ。摺針峠を越え、昔のたたずまいの残る番場宿、醒ヶ井宿などを経て垂井(岐阜県)の町へ。昔の宿を使った観光協会主催の交流会では、地元のお囃子で歓迎され、大いに盛り上がった。
韓国ウオーカーは7組に分かれてホームステイするため、ホストファミリーも出席。隣りあわせの席で韓国語、日本語、身振り手振りで交流して和気あいあいの雰囲気に。ホストファミリーが歌を唄うと、日韓の女性ウオーカーが「マンナム」を合唱。最後は全員が手をつないで「アリラン」を唄い、和やかに輪を結んだ。
(文と写真、金井三喜雄)
(2015.5.13 民団新聞)