■□「野球の神」金星根監督 ◆両国選手育成に手腕発揮 しかし、もし国交正常化が1年早ければ、「野神」は誕生していなかったかもしれない。
◆再入国なく永住帰国へ 韓国に永住帰国してしばらくして金は、肩を痛め、投手ができなくなった。野球以外、祖国で生きていく術がない金は、猛烈に野球の勉強をする。それが、「野神」の基礎となった。 国交正常化以降、野球の韓日交流も盛んになった。2004年には、韓国を代表するホームラン打者・李承が千葉ロッテに入団する。しかし移籍1年目は、極度の不振に苦しんだ。 千葉ロッテの監督であったバレンタインは、李の助言者として、韓国の指導者として定評がある金星根をコーディネーター、後にコーチとして招く。
◆李承をも甦らせた
韓国プロ野球が生んだ打のヒーローが李承なら、投のヒーローは宣銅烈である。宣は96年にヘテ(現KIA)から中日に移籍したが、最初は日本にうまく適応できなかった。 その時、宣の心を癒したのは、当時中日に所属していた金村義明の母親が営む焼肉屋だった。関西遠征の時、宣はたびたび訪ねるほど気に入っていた。 また宣とともに中日リリーフ陣の核だった落合英二とは、宣が韓国に戻ってからも交流が続いた。宣がサムスンの監督に就任した後、落合は研修を経てサムスンのコーチに就任している。 当時サムスンの抑えの切り札は、呉昇桓だった。「日本で通用しますか」と尋ねる呉に、落合は「お前なら大丈夫」と太鼓判を押した。そして昨年呉は阪神に移籍した。 ■□Kリーグのスター移籍、 Jリーグの活性化に一役 かつては、野球は日本が上だが、サッカーは韓国が強く、それが韓国人の誇りにもなっていた。そのため、1993年のJリーグ誕生時、韓国から来たただ一人のJリーガーである盧廷潤(当時広島)には、「裏切り者」「売国奴」の批判が、韓国からあった。
◆活躍通じて認識に変化 また磐田のフィジカルコーチであった菅野淳は、大分の監督などを務めた皇甫官がFCソウルの監督に就任すると、フィジカルコーチに招かれた。皇甫はシーズン開始早々成績不振で辞任するが、後任である、元韓国代表のエースストライカー・崔龍洙は、菅野の留任を強く望んだ。 崔は磐田に所属していた時、負傷に苦しんでいた。その際、付きっきりで崔の復活のためのトレーニングをしたのが、菅野だった。菅野は昨年までの5年間、崔と行動を共にした。 ■□レスリングバレーでも… 在日体育会も仲介役で貢献 ◆同窓の先輩後輩を縁に 国交が正常化する前、東京五輪に向けて強化された日本は、世界有数のスポーツ強国になっていた。 韓国は長い低迷の中にあったが、躍進のきっかけになったのが、64年の東京五輪であり、中でもその先頭に立ったのが、レスリングであった。
東京五輪の半年前、当時世界トップクラスであった日本のレスリング代表選手は、韓国遠征を行っている。環境面や韓国選手のレベルを考えれば、日本にあまりメリットのない遠征であった。それでも遠征が実現したのは、日本アマチュアレスリング協会会長の八田一朗が、当時KOC(韓国五輪委員会)委員長で、韓国スポーツの中心的存在である李相佰の早稲田大学の後輩で、関係が深かったからだ。 東京五輪では、張昌宣が韓国レスリング初のメダルとなる銀メダルを獲得。張は2年後に行われた世界選手権で優勝し、解放後、全スポーツを通じて韓国初の世界王者になった。 72年のミュンヘン五輪では、当時専修大学の学生であった在日韓国人の長州力(本名・郭光雄)が、韓国代表としてレスリング競技に出場している。 これは、長州の実力を惜しんだ専修大学監督の鈴木啓三が、韓国スポーツの実力者で、在日本大韓体育会会長であった鄭建永を紹介して実現したものだった。 韓国語が分からない長州にとって、韓国代表の選手村での生活は、不自由な面もあったが、その時親しくなったのが、在日の柔道家で、韓国代表であった金基泰と呉勝立である。 2人はともに天理大学の出身。天理大学の柔道部監督であった松本安市は、日本代表の幹部であり、師弟対決を余儀なくされた。 金基泰は東京五輪で銅メダル、呉勝立はミュンヘン五輪で銀メダルを獲得。日本の関根に惜敗した呉は、試合会場で松本からかけられたねぎらいの言葉が、何より嬉しかった。 金基泰は80年代まで韓国代表を指導し、その後の発展の礎を築いた。と同時に、天理大学教授として、日本柔道の人材育成にも貢献している。 76年のモントリオール五輪では、女子バレーボールの準決勝で、日本と韓国が対戦した。勝利に貢献した日本のエース・白井貴子は、もともとは在日韓国人。一方韓国代表のエース・恵貞は、「東洋の魔女」と呼ばれた東京五輪の日本代表の監督であった大松博文の指導を受けた。 は74年のテヘラン・アジア大会の時、白井からカバンにつけるアクセサリーをもらったことをよく覚えている。そして、2010年に韓国の女子バレーボールのプロチームであるGSカルテックスの監督に就任するや、白井を韓国に呼んで、アドバイスを受けている。 バレーボールでは、70年代から80年代にかけて、「アジアの大砲」と呼ばれた韓国男子のエース・姜萬守が、早稲田大学OBで、在日の実業家である白萬燮の勧めで、84年のロス五輪終了後、同校に留学している。姜は、女優の黒田福美がファンになるなど、韓流の元祖になった。 ■□指導者らが双方向交流… お家芸伝授しライバル刺激 70年代までは、大松をはじめ、多くの日本人指導者が、韓国に渡ったが、88年のソウル五輪をきっかけに、韓国のスポーツが躍進すると、今度は、韓国人の指導者が、来日するようになった。 3年前のロンドン五輪で日本の女子アーチェリーは、史上初の銅メダルを獲得したが、エースとして活躍したのは、韓国から帰化した早川漣であった。また早川を指導したのは、長崎国際大講師の金相勲であった。 また先月、バドミントンの国別対抗戦であるスディルマン杯で日本は、準決勝で韓国を破り準優勝を果たしたが、日本代表を率いるヘッドコーチは、韓国バドミントンの英雄・朴柱奉である。 近年、日本の長距離スケートのホープとして期待されているウィリアム師円を指導したのは、国際交流事業の一環として、今年5月まで山形中央高校に派遣されていた元韓国代表の金明碩であった。
その他、ハンドボール、バスケットボールなど、様々な競技種目で韓国人の指導者が日本で活動している。その一方、野球などで、韓国からの留学生も、珍しくなくなった。 毎年2月には、沖縄や九州で韓国のプロ野球チームがキャンプを行い、日本のチームとの練習試合も盛んである。秋に宮崎で行われている、若手育成を目的にしたフェニックスリーグには、独立リーグを含めた日本のプロチームに加え、韓国からハンファ、斗山、LGが参加し、互いに刺激し合っている。「野神」金星根監督率いるハンファには、元巨人のエースである西本聖など、5人の日本人コーチがいる。 今や日本と韓国のスポーツ交流は、年齢、分野を問わず、非常に盛んである。もちろん、直接対戦する時は、隣国のライバルとして負けられない戦いになる。 ◆平昌・東京の成功へ協力を 大島裕史(スポーツライター) | ||||||||||