掲載日 : [2016-06-29] 照会数 : 7537
サラム賛歌<10>本でつなぐ 韓国と日本
出版文化国際交流会 舘野 晢さん
毎年、ソウルのCOEXで開催される「ソウル国際ブックフェア」に、今年も日本の出版文化国際交流会の舘野晢さん(80)がやって来た。この人を抜きにして、日韓の出版交流は語れない。
2001年に韓国の文化観光部長官から、外国人として初めて「出版文化功労賞」を授与された。その後も大韓出版文化協会や韓国文学翻訳院から、出版関係の功労を称える賞を受けている。
舘野さんが韓国を初めて訪れたのは1968年のこと。東京都庁の経済局で中小企業の育成支援の仕事を担当しており、馬山、九老工団などを訪ねて、企業の運営や輸出実態を調査した。
そのときに出会ったのが、高校教師の朴恩玉さんだった。ソウルのあちこちを案内され、自宅にも招かれ、知人への紹介など、とてもお世話になった。その後も続けて韓国を訪れるようになった舘野さんは、いつの間にか朴さんの息子のような扱いを受けるようになった。善き人との出会いが、韓国語の勉強にもつながった。
1970年代の初めに、東京で韓国語を学ぶことのできる場所はとても少なかった。しかもそこには、政治的な匂いが強く漂っていた。北朝鮮を持ち上げる日本の文化人の多い時代で、韓国のイメージは『ユンボギの日記』に代表されるような、貧しく不平等な世界だった。
「北が言うほど北はうまくいってはいないし、北が言うほど南は貧しくて未来がないわけでもない」。韓国の人々と直接ふれ合う機会のある舘野さんは、そう考えるようになった。
実は、舘野さんは中国大連生まれで、10歳のときに引き揚げた。そのため、かねてより中国には深い関心を寄せていた。大学では中国研究会に所属し、日中友好協会の活動にも参加した。だが文化大革命の嵐は、中国に関心を寄せる日本人の間にも吹き荒れた。中国革命への期待と失望。中国と縁遠くなった日本の知識人も多かった。そして舘野さんの韓国への関心は、文革を契機にいっそう深まった。
安宇植先生に数人のメンバーで韓国語の指導を受けるようになり、やがてこのメンバーを中心に翻訳書を出す喜びも味わった。これまで手がけた数多くの翻訳書のうち、特に気に入っているのは、金聖七の『歴史の前で』(邦題は『ソウルの人民軍』、社会評論社)。朝鮮戦争当時、イデオロギーに翻弄された人々の姿を、歴史学者が冷徹な目で追った日記である。
1989年から現在まで『出版ニュース』誌に、「韓国出版レポート」を毎月書き続けているのも、舘野さんの大切な仕事だ。翻訳出版の実現のため、日韓の出版社の間を取り持つ役割も担ってきた。
舘野さんによると、昨年1年間に韓国で出た日本の小説やエッセイは1000点超。一方、日本で出た韓国文学の翻訳書は23点。そんな不均衡がずっと続いている。
日本の本はたくさん出るが、韓国人の日本への理解はそれほど深まらない。日本人の韓国への無関心も深刻だ。もどかしい思いを抱えながら、舘野さんは今日もたくさんの本を鞄に入れて歩き回る。本を媒介に、日本と韓国の心と心を近づけるために。
戸田郁子(作家)
(2016.6.29 民団新聞)