4月25〜5月8日■□
民団本部で歓迎
久しぶり再会に笑顔…高麗美術館で特別展鑑賞も 【25日】壱岐‐博多‐呉。博多港では韓国コースに参加した2人に完歩証と記念ペナントが贈られて別れの握手。ウオーク隊は貸切バスで、瀬戸内海に残る通信使の足跡を訪ねる旅に向かった。
【26日】下蒲刈(広島・呉市)
【27日】鞆の浦(広島・福山市)
【28日】牛窓(岡山・瀬戸内市)を経て大阪へ。大阪に着くと民団大阪本部で歓迎会が行われた。
李龍権副団長は「民団からは6人が参加しています。大阪の金承南さん、李恵美子さん、東京の河在龍さん、金保雄さん、千葉の李性任さん、栃木の金升子さんです。皆さんのウオークが果たす平和の使節団としての活動はとてもうれしいです」と激励してくれた。
【29日】大阪‐枚方。いよいよ日本コースを歩きだした。新緑が美しい川べりにはたくさんのウオーカーが集まり、久しぶりの再会に抱き合う姿が見られた。韓国最高齢の韓棟基さんは、ママのかおりさんとやってきた永渕美乃里さんを見つけ「あー!」と声を上げて笑みを浮かべた。2年ぶりの再会だ。4年前に手をつないで歩いたあどけない少女は高校1年生に成長し、はにかみながら握手した。
通信使一行は京都までは川舟に乗り換えた。岸から1隻につき70人が綱で引っ張って進み、たくさんの見物客がつめかけたという。土手には心地よい風が吹き渡る。今日は大型連休でたくさんの家族連れが遊ぶ河川敷を歩いた。
【30日】枚方‐京都。菜の花が風にそよぐ堤防の道を気持ちよく進む。淀城址の城壁横には通信使が上陸した桟橋があったという碑が建てられていた。国道沿いのファミレスで昼食。京都競馬場がすぐ近くにあり、大変な人出だ。午後からは気温が上がり、27℃。これからは「暑さ」との戦いだ。休憩場所の神社でサポート車からのアイスキャンデーの差し入れにほっと一息。三条大橋近くの河原はカップルや外国人観光客がずらりと座り込んで大混雑。外国人の「?」の質問に韓国ウオーカーの柳炳熙さんが英語で説明していた。
【5月1日】京都交流日。今回も高麗美術館を訪問、通信使などの研究で知られる故上田正昭氏の特別展では、通信使が書き残した珍しい書画を見ることが出来た。中でも江戸城での馬上才の絵は初めて見るもので、素晴らしかった。また正徳度の行列絵巻の色彩の美しさに、韓国ウオーカーは「きれいですね。素晴らしい行列だったんですね」と見入っていた。
雨森芳洲の地元 【2日】京都‐草津。滋賀県庁に三日月大造知事を訪問。4年前に草津駅で偶然に出会い、前回は出発式に出席。「雨森芳洲の地元として、世界記憶遺産登録へ向けたみなさんのがんばりに敬意を表します」と激励された。ついで訪れた民団滋賀県本部では婦人会の皆さんからの激励に韓国ウオーカーは一人ひとり握手して応えていた。琵琶湖は通信使が見たかった場所。心地よい風が渡る湖畔の公園で弁当を広げ、五月晴れが映える青い水面の水しぶきにいにしえの通信使たちが書き残した詩文を想い起こした。
【3日】草津‐近江八幡。ユネスコ記憶遺産登録への学術委員長、仲尾宏さん(京都造形芸術大客員教授)が「朝鮮人街道は昔は松並木がある美しい道でした。少しお供します」とノボリ旗を掲げて共に歩いた。この街道は滋賀県野洲市から彦根市まで41㌔の道で、江戸時代、家康が上洛した時の「吉例の道」として行列としては将軍と朝鮮通信使だけが通行できた。
桜並木の両側の田んぼは今が田植えの盛り。桜並木には実に気持ちよい風が渡る。静かな昔の町並みを歩き、近江八幡市に入ると、大型連休の人並みが待っていた。時代劇ドラマのロケによく登場する琵琶湖に通じる川には、観光客を乗せた船。船客からは通信使のノボリ旗にたくさんの手が振られた。
田舎道で祭り遭遇 【4日】近江八幡‐彦根。安土城址を過ぎた田舎道で今回も祭りに出会った。東近江市の「伊達の坂下祭り」の行列で、お稚児さんが輿に乗り、その後を元気のいい若衆たちの担ぐ神輿が練り歩く様子は、韓国や今回初めて参加した台湾のウオーカーには珍しく、盛んにスマホで撮影していた。田植えの済んだ田んぼからはカエルの鳴き声が聞こえてくる。この音色はたぶん昔の通信使の耳にも届いたに違いない。さわやかな風に乗って小鳥のサエズリも。強い日差しの中だが輿に乗った三使たちもしばし緊張から解き離されてノンビリと「居眠り」でもしていただろうか?
井伊藩・彦根城周辺は今年のNHK大河ドラマの影響で大変な人出。そのため城は遠くから眺めるだけで、市役所にゴールした。
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峠から琵琶湖が
韓国側10人がホームステイ…前回に続き2人1組で交歓 【5日】彦根‐垂井。彦根市の大久保貴市長が出発式で「世界記憶遺産の登録を心から願っています。東京まで元気に歩きぬいてください」と激励。ノボリを掲げて歩き、見送ってくれた。気温は23℃だが摺針峠への森の中の古道は少しヒンヤリ。峠からは琵琶湖が水田の向こうに見えた。
茶店にあった通信使が書き残した「望湖堂」の額は火事で消失したが、通信使たちは峠からの風景をたくさんの詩文に書き残している。宿場の雰囲気が残る柏原宿で休憩した。直射日光の当たる気温は32℃となり、サポート車が運んだ冷たい水や氷がすぐに無くなる。垂井に着くと観光協会の早瀬正敏会長らが出迎え。
端午の節句とあって柏餅が振舞われた。今日は韓国ウオーカー10人が2人一組で前回に続いて日本の家庭にホームステイする。漢字で名前を書いた大きな紙を持ったホストファミリーが紹介され、それぞれのマイカーで家庭に向かった。
【6日】垂井‐一宮。朝の垂井駅前には韓国ウオーカーがホストファミリーに車で送られてきた。トランクからスーツケースを渡され、「また来てくださいね」と笑顔で見送られた。「オーケー、オーケー」と手を振った初参加の李石泉さん(75)は「ハルモニが嫁に行った末娘と孫を呼んで接待してくれました。チラシ寿司がとても美味しかった。ハルモニの親切な心づかいがうれしかった。とてもいい記念になりました」と顔をほころばした。
また、2回目のホームステイとなった女性ウオーカーの張禎充さん(55)は「前回ホームステイしたハルモニも来てくれて懐かしく、思い出話に花を咲かせた。家の人たちが韓国語を勉強中なので、私が先生になり1時間以上も教えたらとても喜んでくれました」と懐かしがった。
出発式で早瀬会長は「民間の絆は深いものです。みなさんはどうか日韓の懸け橋になってください」と激励。正使役の宣相圭・韓国隊長は「皆さんの温かい心を国に帰って伝えます」と応えた。ホストファミリーたちも途中の大垣市まで歩き、別れを惜しんだ。
木曽川を渡るため、特別に通信使と将軍家だけに船をつないだ仮橋「舟橋」が作られた。一宮市尾西歴史民俗資料館でその模型を見た韓国ウオーカーはその精緻な構造に驚いていた。
【7日】一宮‐鳴海。国道と旧道をつないで歩き清洲城へ。昼食は名古屋城の公園で芝生に座り込んでコンビニで調達した「お弁当」。名古屋市内で合流した小瀬古節夫さんは10年前の第1次の支援ドライバー。今日は自分の畑で作った「スナップエンドウ」を茹で、フキを甘辛く煮て差し入れてくれた。
韓国では氷水やお餅などさまざまな差し入れを楽しんだが、さて日本では「?」と少々心配していたのだが。所々でのこのような心のこもったプレゼントに、歩き疲れたウオーカーの心が和む。そして本当に美味しいのだから!
午後からはお祭りの山車に遭遇。警官が出て車を一時通行止めに。大都会の一角でこのような住民たちの日常の「お祝い」に出くわすのは歩き旅ならではのこと。犬も歩けば、いや人が歩けば人情にあたる、のですね。今日は久しぶりに長丁場の37㌔を歩き、お互いの両手をたたき喜ぶウオーカーが多かった。 Архитектурное бюро Z500
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第11回の行列図 【8日】名古屋休養日の予定だったが、「現代の朝鮮通信使あいち」の平山良平代表がぜひ見せたいものがあるというので、地下鉄で崇覚寺に向かった。本堂には大きな屏風絵が置かれていた。
見ると朝鮮通信使を描いた行列図で、色彩鮮やかなさまざまなシーンの絵が一枚ずつ計36枚が張られていた。正使など三使が輿に乗っている場面、国書を運ぶ人たち、音楽隊、刀などを掲げる武人、まだ髪を束ねられない少年たちなどさまざま。
1996年に和尚が寺での音楽行事のため衝立を探していて見つけたそうだ。先代から聞いていた「一風変わった大名行列図」がこれで、東海地方朝鮮通信使研究会(貫井正之代表)が鑑定したところ1764年の第11回のものとわかった。
朝鮮人と日本人の特徴がそれぞれ違うタッチで描写され、今まで見た行列図と違い、特徴がたくみに描かれていて興味深かった。まだまだ地方にはこのような「お宝」が埋もれているのかもしれない。
鐘鼓楼 4種の打楽器「サムル」が保管され、あらゆる衆生を救うシンボル。別名は梵鐘楼。儀礼の前に朝33回、夜28回鳴らし、法鼓は地上の畜生、木魚は水中の魚類、雲版は飛ぶ鳥類、大鐘は地獄の衆生にそれぞれ釈迦の法音を聞かせるという。
(文・写真 友情ウオークの会 金井三喜雄)
(2017.5.24 民団新聞)