掲載日 : [2004-01-01] 照会数 : 6547
夢破れた「地上の楽園」(04.1.1)
北韓に残した家族との再会願う
恐怖におびえ、命からがら北韓から逃れた元在日同胞とその縁故者がすでに60人近い人数に達している。目下の課題は日本での生活基盤の再構築だが、日本語、就業、住宅や社会への適応問題など、多くのハンディを抱えているのが現状だ。これからも多くの同胞の支援が期待されている。民団が「脱北者支援センター」を立ち上げて半年が経過したのを機会に、あらためて彼らの知られざる素顔に迫った。(文中は仮名)
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最愛の息子2人も失い
夫は「おまえは行かなくてもいい。子どもは大学に入れる。3年目には里帰りできるから」と、無理には勧めなかった。日本国籍の妻・李洋子さんを気遣っての言葉だった。しかし、小さいころから母子家庭で苦労してきた李さんだけに4歳の子どもを一人きりにはさせられなかった。迷わず「一緒に行きます」と夫に告げた。
未知の世界に踏み出す李さんに不安がなかったわけではない。ただ、総連組織の「宣伝映画」を見てきただけに「地上の楽園」に賭けてみようとも思った。当時、北海道は景気も悪く、生活の先行きが不透明だったこともある。
北送運動の高揚していた60年代初め、親子3人で帰国船に乗船した。北韓に着いて、李さんはつかの間の夢を見せられていたことに気づく。夫は電機工場で働いたが、賃金の遅配、未払いのため生活が立ち行かない。夫はすまなそうに一人つぶやいた。「悪かった。こんなところに連れてきて苦労させてすまない」。
李さんは山の中でトウモロコシとジャガイモを植え、豚を飼育して家計を支えた。主食はトウモロコシのおかゆ。長時間煮込むことで見た目の量は増えるが、おなかの足しにはならない。子どものために松の皮をはいで団子もつくった。
夫は81年以降、年金生活に入った。支給額は1カ月35ウォン。なのに、米は1㌔290ウォン、トウモロコシが180ウォンだった。「とにかく苦しい」生活に李さんは悲鳴を上げた。夫は失意の内に88年に死亡した。犬に噛まれた際、悪性の病原菌に感染したようだった。
夫ばかりか、北韓では最愛の息子2人も亡くした。なかには病院で適切な措置があれば助かったのではと思われる場面にも遭遇した。もはや北韓での生活にはなんの希望も持てなかった。
半年間の準備期間をおいて娘1人だけ連れ、凍り付いた真冬の豆満江を渡った。「捕まったら終わり」だけにほかの娘や孫たちは連れ出せず、北韓に残した。中国国境では行商人を装い、警備を突破した。延吉で1カ月というもの身を潜め昨年1月、日本総領事館にたどり着いた。領事から「もう大丈夫ですよ。安心しなさい」といわれて初めて脱北に成功したとの実感を味わうことができた。
李さん親娘は支援センターの世話で日本での定住生活を送っている。ただ一つ心残りなのは、北韓に残した子どもと孫たちの存在だという。李さんは親族の名前で手紙を出したが、まだ返事はない。
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友だちでも身元明かせず
石学仁さん(55)が成田にたどり着いたのは02年10月のこと。日本を離れてからすでに30年以上の月日が流れている。かつて生まれ育った町は信じられないほど変貌していた。生活習慣の違いにも戸惑うばかりだった。
駅では切符を買ってもしばらくの間、改札口を通れなかった。切符にはさみを入れてくれる駅員の姿が見あたらなかったからだ。ほかの人のやり方を見てようやく電車に乗ることができた。
喫茶店ではセルフサービスの習慣にも戸惑った。席に着けばウエイトレスが注文を聞きに来るものとばかり待ち続け、周囲の失笑を買った。銀行のキャッシュカードも初めて見た。
口座を開設するときは職場の同僚に付き添ってもらった。石さんは見た目には外国人とは見えないだけに、「なぜそんなことも分からないのか」と同僚から聞かれた。このとき、石さんは「しみじみ30年というブランクが身にしみた」という。 石さんが身元を明かし、北韓から命からがら脱出した事情を話せば納得してもらえようが、北韓に残した家族に危害が及ぶことを考えて沈黙を守った。日本にいる古い友人に会いたくても会いに行けない。「本当にかわいそうな人間だよ」。石さんは自嘲気味につぶやくばかり。
石さんが北韓に渡ったのは70年代のこと。相前後して間もなく姉と弟も同行した。しかし、姉は精神に異常をきたして亡くなった。
兄弟は職場で認めてもらおうと、人一倍仕事に精を出した。7年後、「帰国者がどうしても乗り越えられない壁がある」ことを思い知らされた。「帰胞」「在胞」としていつまでも異端視され、社会の成員として受け入れてくれないのだ。やがて兄弟とも無力感に陥り、仕事に身が入らなくなっていった。
石さんによれば、93年ごろからは食料の配給が滞るようになり、95年にはまったく届かなくなったという。
石さんは6年前から秘かに脱北の準備を始めた。弟さんによれば食糧難が動機ではなく、「前(希望)が見えないから」だった。
兄弟は日本に戻ってから間もなく、「悪いことしたから逃げてきた」と総連側が吹聴しているのを人づてに聞いたという。これに対して兄弟は「とんでもない」と反駁している。兄弟ともに80年代に労働党の党員になっている。怒りの矛先は北韓の実情を知りながら、多くの同胞を北韓に送り出した総連組織に向けられている。「総連に言いたい。民族のためにやってきたというが、多くの同胞を不幸に陥れただけ。この結果に謝ってもらいたい」
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家族離散の悲しみ深く
金若銀さん(56)は都内で三女の家族との4人暮らし。支援センターの仲介で家族の就業先も決まった。「日本はすばらしい」と時折り笑顔も見せる。唯一の心残りは中国で行方不明になった次女、北韓に残した長女とその家族4人のことだ。
北韓では97年に夫を亡くし、金さん自身も心労が重なり病気で倒れた。金さんは「ここでは生きられない」と、まず三女を中国に逃した。続いて金さん自身も90年代後半に中国に脱出、潜伏した。残る家族も呼び寄せようと北韓に送った手紙が、中国当局の目にとまり、密入国で逮捕された。
金さんは当時を振り返り、一度は「死ぬ覚悟」も決めたという。
金さんは父親と同じ日本国籍だった。事実を知った日本外務省が動き、4カ月半後に刑務所から釈放され,02年12月31日に日本に帰国した。
金さんの母親は朝鮮籍で熱心な総連シンパ。子どもたちを祖国で育てようと60年代初頭に一家で帰国した。金さんが14歳のときのこと。北韓に到着して初めて母親から聞いていた祖国の姿と現実との落差に気がつき、つい母親をなじる言葉が口をついて出た。「なんでこんなところに来たの」。母親はなにも答えられなかった。
成人してから北韓で結婚した。配給はトウモロコシだった。配給が続く限り生活はなんとかできた。だが、金さんが北韓を脱出した今はそれすら途絶えがちだと、北韓から届いた娘からの手紙で初めて知った。食料品の値段もどんどん上がっている。生活の苦しさは容易に想像できた。同封されていた写真で見る娘の容姿が金さんには驚くほど老けて見えた。
金さんはいま、わずかな生活費を節約しながら娘たちのために送金を続けている。日本円で1万円あれば、北韓では1カ月は暮らせるはずと、金さんは語る。送金にあたっては都内の住所を特定できないよう、地方の親族を経由している。
金さんは「いまはとにかく働きたい」という。中国で行方不明のままの次女を捜したり、北韓に残した家族を呼び寄せるための費用に充てたいのだ。
金さんの夢は「北と日本が仲良くなること」。国交が結ばれれば、家族離散の悲しみも解消すると思うからだ。
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決死の脱出劇で後遺症今も
在日同胞は運良く北韓を脱出できたとしても、中国はもとより韓国政府の庇護も受けられない。いくつかのルートをたどり東南アジアまで約4000㌔の道のりを旅し、密入国して日本領事館までたどり着かなければならない。
梁良子さん(35)が姉(43)と一緒に中国を発ったのは01年夏のことだった。地元に住む複数の中国人を案内人として雇い、リレー方式でつないでいく方式だ。「公安に捕まったら終わり」だけに常に人影におびえ、身を隠すことを繰り返した。
足をがくがくさせながら30分かけ、ようやく急傾斜の山を越えて第3国に入った。そこで国境警備隊員から不審尋問を受けた。パスポートを所持していない梁さんは、ただひたすら「ジャパニーズ」と叫び、言葉の分からないふりをした。2時間後、罰金を支払うことでようやく解放された。
中国を発ってから1週間の脱出行だった。そこからさらに別の国に移り10日間の潜伏生活を経て日本にたどり着いた。この間、極度の緊張からか首から背中にかけて凝り固まり、これまで経験したことのない痛みが日本にたどり着くまで続いたという。
住まいの確保に困っていた梁さんは支援センターの仲介で都内に住居を確保、定着資金の支給も受けた。生活は落ち着いたかのように見えたが、神経がとぎすまされ、遅くまで寝付けない日々が続いている。ちょっとした物音にも真夜中、びっくりして目を覚ましてしまうこともしばしば。
6人の家族全員で北送船に乗ったのは70年代中半のこと。肝臓を患った父親が総連組織から無料で最新の治療を受けられ子どもたちも大学で学べるからと勧められ、組織の専従者だった両親はそれに従った。当時8歳の梁さんは大きな船に乗れると無邪気に喜んでいた。
父親は北韓に渡ってから2年目に亡くなり、母親も骨ガンで94年に父親の後を追った。
梁さんは離婚してから1年間、独り暮らしを続けた。その間は生きるため無許可で中国の国境近くまで行って品物を安く仕入れ、町中で売るという行商生活を続けた。もし、安全部に見つかれば拘束される。駅に停車した電車の中で一晩中寒さに身を震わせながら「生きるということはこんなに辛いものなのか」と思っていた。
そのころ姉は子ども1人を栄養失調で亡くし、前途に希望を失って単身で中国に逃れた。一度は捕まったものの、再び脱出に成功していた。姉に誘われたこともあり、33歳のとき人生をやり直すつもりで従った。梁さんも姉と同じく、「この国ではもう暮らせない」との思いからだった。梁さんは最近、接客のアルバイトが見つかった。頑張って働いて、北韓に残る兄弟の手助けをしてあげるのが目下の希望だ。
(2004.1.1 民団新聞)