掲載日 : [2004-08-15] 照会数 : 7407
私の8・15…在日の自叙伝から(04.8.15)
植民地時代、国を追われ異国の地で暮らした同胞は1945年8月15日をどのように迎えたのであろうか。「在日コリアン歴史資料館調査委員会(仮称)」事務室には在日同胞が書いた約30冊の自叙伝が集められている。そこには祖国解放を迎えた著者たちの心情が生々しく書かれている。その中から一部を紹介する。
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帰る段取りを考えた
8月15日、わたしは肺浸潤の後遺症のために体の具合が悪く、仕事を休んで家にいた。なにかあるというので、すぐ近くの西成区潮路通にある朝鮮人の集団部落の知り合いの家に行った。
正午に天皇の重大放送があるからみんな聞いてくれという。それでラジオの前に座って、何人かの人たちといっしょにその放送を聞いたけれども、よく聞こえないし、何を言っているのかさっぱりわからない。
すると、集まった人の中に意味がわかった日本人のおばさんがいて泣きだしたので、「戦争に負けたな」ということがわかった。天皇の言うことなど関心がなかったから、しっかりと聞かなかったが、それにしても、あのような難しい日本語を使われてはかなわない。
「戦争が終わったから、もう帰らなあかんなあ。帰る段取りでもしようか」とぼんやりと考えた。とくに感動はなかった。あのような状況になると、人間は気が抜けてしまう。
(1986年発行、張錠壽著「在日60年・自立と抵抗―在日朝鮮人運動史への証言」から引用。1909年4月7日慶尚南道咸安郡生まれ。1926年渡日。旋盤工として働きながら労働争議に参加。解放後、大阪と和歌山で朝連結成に参加)
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強制連行記録も焼却
横須賀に着いたのは午前10時ごろでした。昼食をとりに駅前の食堂に入りました。
食堂に入ってみると、中は騒然としていました。正午に、天皇の重大放送があるというのでした。……正午に放送された重大放送というのは、日本の無条件降伏を知らせるものでした。私はなぜか、身の危険をとっさに覚え、食事もとらずに食堂を飛び出しました。私は大変なことになったと思いました。……そのまま電車に乗って帰りながら2、3日前のことを思い起こしました。内務省の3階と4階の窓から書類がつぎつぎとほうりだされて焼かれていたのです。紙くずにしては大変な量でした。……その山と積まれた書類のことが脳裏に浮かんだ私は、それは単なる紙くずではなく、秘密書類ではなかったのかと思ったのです。
つまり内務省は今日の重大放送を少なくとも2、3日前には知っていたに違いないのです。日本が無条件降伏をすることを知って、占領軍に没収される書類の中で、日本にとって不利になるような書類を焼いたのに違いありません。……その中にはきっと、私たちを強制連行してきた関係書類もあり、したがって私たちの名簿もあったのかと思うと、故郷の肉親にも知らされずに無縁仏として日本の土地の片隅にほうむりさられている仲間や同胞のことが口惜しくてならず、憤りを抑えきれませんでした。
(1984年発行、鄭清正著「怨と恨と故国と・わが子に綴る在日朝鮮人の記録」から引用。1924年慶尚北道高霊郡生まれ。1941年2月、福岡県吉隈炭鉱に強制連行されたが、逃亡し各地を放浪。)
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対策委員会すぐ結成
(8月15日直後)、朝鮮人のあいだでは、すぐに活発な動きがおこった。私のところには、権赫寅(逸)が、朝鮮人の引揚げ問題などを解決するために、朝鮮人対策委員会をつくるから来てくれんかという連絡があった。権は前記のように興生会の中央幹部だったが、私が以前釜山に行ったときに信頼する知人から「あれは今でこそネコをかぶって日本の手先になっているが、本当は気骨のある民族主義者だから会ってみろ」といわれ、1、2回訪ねていったことがある。
……この会合は8月20日に杉並区荻窪でひらかれた。ここには……親日派のそうそうたるメンバーが顔をそろえているかと思えば、……共産党の指導者だった人物もいるという呉越同舟の顔ぶれで、約50人ばかりが集まった。この顔ぶれで在留朝鮮人対策委員会が結成された。
(1978年発行、金鍾在述、玉城 素編「渡日韓国人一代」から引用。1900年釜山生まれ。1916年渡日。東京韓国学園初代校長)
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祖国解放実感せず
日本の敗戦を知らされたのは、桂林(中国)近郊の野営地に駐屯していた1945年の8月20日頃であった。日本の敗戦は即、朝鮮の解放であった。しかし、正直なところ、私は朝鮮解放という民族的な喜びを深く感じなかった。
その日、中隊長は私達に「天皇陛下が恐れ多くも終戦のお言葉を……」と、かったか負けたか全く訳の分からぬ事を話したが、とにかく戦争が終わったという事は理解できた。これで日本にいる父母や妹弟の所に帰ることができる、ということが何よりも嬉しかった。 この日、何人かの大隊将校が自決したのを私は目撃した。本来なら、この日本の敗戦を祖国の解放、独立として受け止め、朝鮮人として今後どう対処すべきか、民族的立場に立ってはっきりした考えや方針を持つべきところであったが、日本軍の一員として戦ってきた私にはそこまで考えるには未熟であり、何の考えもないままに、大きな時代の流れについていくだけであった。
(1997年発行、金乙星著「アボジの履歴書」から引用。1926年3月8日慶尚南道鎮海市に生まれる。1927年渡日。日本軍に志願。復員後、各地で朝連活動。1955年北朝鮮へ渡航。1961年日本へ密入国)
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さあ故国へ帰れるぞ
8月15日、われわれは疎開先の農家のラジオの前に集まって、天皇の放送を聞いた。雑音が多くて、何を話しているのかさっぱりわからなかった。日本が戦争に敗け、戦争が終わって、われわれがようやく解放されたのだと知ったのは、その日の夕方だった。
「これでわれわれは、ようやく解放されたんだよ」とみんな口々にいい合って喜んだ。
「さあ、故国へ帰れるぞ。帰ってみんな故国のために働くんだ」
どの顔も希望に燃えて明るかった。
(1985年発行、鄭煥麒著「在日を生きる」から引用。1924年1月16日慶尚南道晋陽郡寺奉面生まれ。1927年渡日。民団愛知県本部団長。愛知韓国学園名誉理事長)
(2004.8.15 民団新聞)