掲載日 : [2004-08-15] 照会数 : 6263
歴史的映像の収集も急ごう 呉徳洙(04.8.15)
各国に貴重な記録…具体的物証は魂の原点
韓国ブームだそうである。「韓流」などという新語が世間をにぎわしてもいる。日本人の「在日」に対する意識が底上げされたと喜んでいる在日がいる。その一方で、一昨年の「拉致」以来憂鬱な日々を過ごしている在日がいる。まさに「明」と「暗」である。しかし、かくのごとき「本国発」に一喜一憂せず、そろそろ自らにつながる「在日の歴史」と冷静に向き合い、主体的、かつ具体的に取り組む時機と考えるが如何であろうか。
私の手元に、百数十枚の写真がある。日本敗戦によって、山口県は仙崎港から祖国・朝鮮へ引揚げていく人々の、まさに混乱をきわめた生々しい写真の数々である。背負い切れないほどの荷物をかかえた親子、予防接種を受ける子供、行列をつくって乗船していく人々など、当時の様子が克明にフリーズされている。
それらの写真は、ニュージーランドの首都・ウエリントンにある国立図書館「アレキサンダー・ターンブル図書館」に保存されていた。なぜ? それは連合国軍の一翼を担っていたニュージーランドの軍が山口県の占領・統治を受け持っていたからである。
さっそく山口県長門市の仙崎港を訪ねた。仙崎は小さな港町で、夭逝した詩人・金子みすゞの故郷として知られている。港には当時の様子を物語る「海外引揚上陸跡地」の看板がおだやかな海風をうけてひっそり立っていた。その看板には「昭和二十年八月十五日、太平洋戦争が終結し、海外にいた人々を帰国させるため、引揚港として博多、舞鶴などとともに仙崎港が選ばれ、引揚船には興安丸(七〇七九㌧)などが使用されました。〈中略〉昭和二十一年末、仙崎が引揚港の役割を終えるまで、この港に上陸した人々は約四十一万人、ここから朝鮮に帰った人々が約三十六万人、大混乱の一年余りでした」と記されていた。
つまり、当時の仙崎港は朝鮮・中国に渡った日本人と、祖国に帰る在日との引揚港として効率的?に機能したことになる。こうしてこの小さな港町を舞台に、一年間に七十数万人もの壮絶なドラマが展開された。その写真の一枚一枚は当時の模様を彷彿とさせる。
それにしても、写真に定着されているすさまじい状況に比して、港に立つ看板のなんと淡泊な記述であろうか。戦後六十年、隔世の感である。
また、アメリカ国立公文書館にも戦後の在日を活写した膨大な映像資料が保管されている。他方、ロシア映像資料館所蔵の満州映画社製作「満州の記録」(日帝からの戦利品)には、宮城前での徴兵された朝鮮青年の壮行会が脈々と記録されている。英国にも、豪州にも在日に関する映像資料が保存されている。それらはまさに「宝の山」と言っても過言ではない。
来年二〇〇五年は、朝鮮支配の「乙巳保護条約」から百年を数える。在日の世代交代がすすみ、祖国体験を持つ在日一世はごく少数となった。時代はうつろい、「価値観の多様」だそうである。結構なことだ。「在日論」もかまびすしく論議されている。それも結構であろう。しかし、「観念論」「生き方論」も大切だが、これまで在日が生きてきた具体的物証を集約し、地歩を固めなければ、時の流れと共にそれらは「砂上の楼閣」「机上の空論」と化してしまう。私はそれをおそれる。
現在、「在日同胞歴史資料館」の設立の準備がすすんでいる。これを奇貨とし、前述した海外の各資料館をはじめ、日本の新聞社や映画社はもちろん、在日家庭に眠る写真も併せて、今こそ「歴史映像」集約の好機と考える。そのための力の結集を熱望してやまない。
在日のみなさん!「韓流」などに浮かれ、「拉致」に落ち込み、「在日論」のみに口角あわを飛ばしている場合じゃありませんぞ!
呉徳洙
1941年秋田県生まれ。早稲田大学文学部卒。大島渚監督『白昼の通り魔』の助監督を皮切りに映画界へ。東映撮影所を経て、79年に「OH企画」を設立。97年に完成した『戦後在日五〇年史・在日』は、日本映画ペンクラブ賞、キネマ旬報賞などを受賞し、現在も全国で上映されている。「在日コリアン歴史資料館調査委員会調査委員」。
(2004.8.15 民団新聞)