怒りと涙の100年たどり…日本社会との架け橋に
最近、愛媛新聞在日取材班著「在日―日韓朝の狭間に生きる」に対する在日3世李河林の「記憶をなくした日本人への警鐘」と題する書評を読んだ。評者は冒頭に「日本生まれの在日3世である私が初対面の日本人に本名を名乗る時、9割以上の割合で返ってくる言葉がある。『中国の方ですか』『日本語がお上手ですね』『いつ日本に来られたのですか』……
『またか』。そのたび沸き起こる失望を引きつる笑顔で覆い隠す。ルーツを説明するも、たいていの人は理解できずに『ふーん』で終わってしまう。さらに失望を募らせるのは差別を意識した気遣いのつもりなのだろう、同質性を強調した『日本人と変わらないですね』という『仲間意識』から発せられた言葉。その意識がかえって差別につながることを、言葉を発した本人は少しも気づいていない。本名を名乗った経験のある在日コリアンなら誰しも一度はしたことのある体験だろう」(「週刊金曜日」2004・7・16号)と書いている。
敵視と排外…呼称も変遷
なぜこの一文を引用したのかといえば半世紀近くも前の私の体験がそのまま繰り返されているからである。40数年前、本名宣言をした私の場合、「あちらの方ですか」「川向こうの人」「朝鮮の方」「日本人と同じじゃないですか」であった。発信者は面と向かって朝鮮人、朝鮮国といえないある感情が動いたのか、あるいは相手の認識がまともにできない当惑があって、「あちら」と言い、朝鮮人の間に接続詞「の」を入れて私を思いやった造語だが、本名宣言にたどりついた葛藤などまるで見えていないと思う。
一国家、一民族の美称である「朝鮮」がどうしてこのような日本人の蔑視語、差別語に変わってしまったのか。日本人のこうした意識は私の朝鮮近代史研究志向の一因になったほどの衝撃であった。その後関心のおもむくまま、日本の隣人呼称の変遷を研究したことがあるが、「明治」以降、1945年までそれは「朝鮮国人」「朝鮮人」「韓人」「韓国人」「鮮人」「不逞鮮人」「半島人」と変わっていた。それぞれ「征韓論」「日清韓戦争」「日露戦争」「義兵戦争」「韓国併合」「3・1運動」「皇民化政策」と表裏の関係にあり、ひたすら朝鮮の民族主義を敵視した大日本帝国形成の歴史が実証されることは言うまでもなかった。
解放後の「北鮮」「南鮮」「第三国人」は日本単一民族論による新たな排外主義と照応する。与えられた戦後民主主義には、もうお前たちは余計者と見て在日からその歴史性を奪うための新造語が第三国人である。そういえば植民地時代の在日1世は家族を日本と故郷の双方に持つ人が多かったが、日本の敗戦により玄界灘が国境になった。そのため家族の再結合の渡航が続出したが、それを密航として犯罪視して大村収容所の悲劇をつくった。
また、「北送問題」も人道という名の下に再び在日家族分断の痛苦となった。片道切符のため、北に行った私の弟は在日の両親の死に目に会えなかった。私の家族が流した涙は在日共通の体験そのものと言ってよい。
解放後の日本の在日政策は第一に排外、追放、次善の策として同化(異質の排除)であったといえよう。そのため日本政府はさまざまな法律を制定した。選挙権の剥奪、指紋押捺、常時携帯を義務付けた外国人登録令、朝鮮学校の強制廃校、外国人学校法案(廃案)、出入国管理法の適用等々、在日を管理する名目での規制を挙げれば枚挙のいとまはない。
14歳の子供まで指紋押捺を強要したのである。日本政府の高官池上努は在日の「法的地位」について「煮て喰おうと焼いて喰おうと勝手だ」(「法的地位200の質問」京文社1965)と放言した。マスコミは密航、ドブロク密造、ヤミ、アカ、スパイ、反日教育等々非社会的集団と宣伝した。
誤った国策によって犠牲となった国民への補償をいう所謂戦後立法や税金によって作られた公共施設(例えば公団住宅や金融公庫)の利用もその法律の付則(但し日本国籍に限る)によって排除された。就職差別も厳しかった。企業には内規があって在日はすべて門前払いであった。
社会の絶対多数が絶対少数にこのような圧力を加えたとき、それを避けるために在日が変形しないわけはない。帰化、通名、民族教育の衰退、そこから生じる三世、四世の歴史認識の変化等々。私は戦後日本の在日の歴史性を無視した差別排外の事実を除外して、いかなる在日論もありえないと思う。
国際化へ発光体の役割
私たちが今「在日同胞歴史資料館(仮称)」をつくろうとしているのは、こうした日本社会が在日一世、二世の世代がどのように生きたかの記録を次の世代に伝えるためである。
作家の金達寿先生が韓国に行かれた時、朝鮮カボチャの種を持って帰られたが、先生は私に次のようなことを言った。
「一代目のカボチャはそのまま朝鮮カボチャ、二代目はあいの子、三代目になったら日本カボチャそのものになった」と。
風化(媒)現象を説明されたのだが、その後で「人間は植物とは違う。考える葦である」と、400年韓国名を名のる鹿児島の沈寿官さんの話をされた。三世、四世の時代を迎えた在日にとって意味のある言葉である。
私は解放後60年、乙巳条約後100年の歳月が流れ、一世、二世の物故が続くいま、私たちの祖父母の代からこの地で落地生根していくために何が必要かということが、今ほど求められている時はないと思う。
なぜなら、日本の排外主義は1990年代以降先祖帰りを始めているからである。その一元的扇風は2002年9月以降の日本の風潮を見れば一目瞭然である。おそらく戦後日本のマスコミが隣国をこれほどあざとくあしざまに言い立てたことはなかった。そこに良心や英知を見る人は少ないと思う。この反北朝鮮宣伝、だらしない、なさけない北朝鮮に絶望して帰化する人が増加していることも事実らしい。あと20年後に在日問題は消滅すると予言した某入管局長の高笑いが目に浮かぶようである。
しかし、半世紀前に本名宣言をした私と在日三世の李君に対し40数年の年月を超越して同じ認識を持つ日本社会が通名を名乗る人々を依然透明人間としていることは言うまでもない。果たして見えない人々に人権保障はあるのか、同化、帰化した人々もそのルーツを尊重されるのか、私は日本社会で我々が解放後のこのかた問われてきたのはそういうことだと思う。
「今日は昨日のつづきであり、明日への起点である。世のすべてが現在だけでは存在しない。だから過去と未来の連続の中で現在をとらえてこそ現在の真相に近づけるのであろう。私はこれを自己の拡大であり『真我』への接近だと考えている」(林鍾国)
貴重な品々…相つぐ寄贈
私はこの言葉を林先生の訳書「ソウル城下に漢江は流れる」の序文にもらった。先生の「真我」とは歴史意識である。その意味を体して私は自分自身を知るための歴史資料館をつくろうと思う。まだ動き始めたばかりだが、植民地期の渡航証明、チマ・チョゴリの項目もある衣料切符、在日一世らのハングル習字板、弁当箱、柳行李,渡航カバン、指紋押捺拒否の外国人登録、チマ・チョゴリの学生を嫌がらせから守るための「第二制服」などの生活用具や、セピア色になった家族写真などが寄せられている。
また故崔長煥氏の千百冊に及ぶ図書の寄贈を知らせる「民団新聞」(2004.7.21)の記事を読んだ板橋区に住むウ氏、広島市の柳川氏、宝塚市の金氏から約五千冊の図書寄贈の申し入れの連絡をいただいた。在日問題を研究する日本の学者、研究家を含む私たちスタッフ一同勇気づけられている。
より多くの方々が共感を寄せてくださり、在日の歴史意識の培養体として日本の国際化の発光体として本当の意味での日本と韓半島、日本社会と在日社会との架橋になる歴史資料館になるよう応援をいただきたい。
姜徳相
1932年慶尚南道生まれ。早稲田大学文学部卒。一橋大学教授、滋賀県立大学教授を経て現在、滋賀県立大学名誉教授。「関東大震災」、「朝鮮独立運動の群像」、「呂運亨評伝1―朝鮮三・一独立運動」など著書多数。「在日コリアン歴史資料館調査委員会(仮称)」委員長
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探してます 生活用品など「物」を
「在日コリアン歴史資料館調査委員会」(姜徳相委員長)では2005年の在日100年・解放60周年を記念して、「在日コリアン歴史資料館(仮称)」のオープンを目指して準備を進めています。
在日100年になるというのに、今まで同胞社会の正しい歴史認識を啓発してくれる総合的な施設がないばかりか、その歴史資料さえも十分に収集されていません。調査委員会では日本への渡航事情、在日の生活状況、民族運動、民族教育、権利獲得運動、文化芸術運動など全般にわたる資料(図書・文献・写真・映像・生活用具等)を収集し、体系的に整理・編纂し、それを保存、公開、展示して、在日同胞の正しい歴史を広く知らしめ、ともに考える場としての歴史資料館を設立しようとしています。
歴史資料館は①生活用具・写真の展示コーナー②映像・音声資料コーナー③図書・資料閲覧コーナーの3つから構成されます。
一世が使った生活用具、家族の写真、解放後の生活と各界各層の多種多様な活動を写した写真・映像、渡航証明書、協和会手帳、手紙などの「物」がありましたら提供してくださるようお願いいたします。
「在日コリアン歴史資料館調査委員会」
〒106-8585 東京都港区南麻布1-7-32-601
TEL・FAX 03・3454・4926
Eメール
zainichi100@hotmail.com
(2004.8.15 民団新聞)