掲載日 : [2005-06-08] 照会数 : 7085
在日百年 〈物〉が語る歴史 第2部−3(05.06.08)
[ 前列右から3人目が朴烈=1945年11月、秋田県花輪町(現・鹿角市) ]
[ 前列中央の朴烈を囲んで=46年1月、山形で ]
60年前の朴烈の姿
組織作り奔走の日々
間もなく在日100年を迎えようとしている現在、その時代時代を切り撮ったさまざまな写真映像は一級の歴史資料と言える。
ここに2枚の写真がある。撮られた場所はそれぞれ違うが、2枚とも解放後間もなくの朴烈が写っている。1枚は秋田のわが家にあったもので、あとの1枚は民団山形から寄贈されたものだ。
秋田の日付には1945年11月とあり、山形のには46年1月とあることから、民団の前身である新朝鮮建設同盟(建同)結成時前後の写真と思われる。
御存知のように朴烈は戦前、天皇暗殺を謀ったとして死刑を宣告された。解放を迎えた1945年10月27日、22年の獄中生活を終え秋田刑務所を出獄した。同胞たちはまるで凱旋将軍のように歓迎したという。その様子が伝わる圧倒的群衆をおさめた記念写真も残っている。
朴烈出獄から12日前の10月15日、汎民族組織である在日本朝鮮人連盟(朝連)が結成された。朝連は朴烈の出獄を歓迎した。しかし、すでに指導部体制は左派系でかたまっており朴烈を受け入れる余地はなかった。
歴史に「もしも……」はタブーだが、朴烈の釈放がもう半月ほど早かったなら朝連の指導部人事に少なからぬ影響を与えたのではないかと思う。しかし時は戻らず、現実の朴烈は朝連と敵対する右派陣営に迎えられた。歴史の皮肉である。
その頃、朝連に対抗して民族主義を標榜する朝鮮建国促進青年同盟(建青)が結成された。続いて、朝連脱退組、無政府主義者などによる新朝鮮建設同盟(建同)が結成され、朴烈はその委員長にかつがれたのである。その後、この2つの組織は合流し、現在につながる民団(結成時は、在日本朝鮮居留民団)が誕生した。初代団長には当然、朴烈が就任した。
ここに紹介した2枚の写真からは、朝連に対抗する組織づくりに東奔西走したであろう解放後の朴烈の姿が偲ばれる。
(在日コリアン歴史資料館調査委員会調査委員・呉徳洙=映画監督)
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(2005.06.08 民団新聞)