政府見解改善されたが、実質空洞化の言動次々
韓日関係がこの40年間で、質量ともに大きく発展したのは間違いない。しかし、歴史認識の側面でどれほどの進展があったのか、厳しい問いかけが続いており、この問題は東北アジア、さらには東アジアの将来に暗い影を落としている。
謝罪文言ない韓日条約前文 韓日会談について韓国や在日社会では、推進派、反対派を問わず、日本に謝罪と補償を求める激しい運動が展開された。だが、韓日条約は「両締約国は、両締約国及びその国民の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が(中略)完全かつ最終的に解決された」ことを確認し、歴史清算の機会を逸した。条約の前文には謝罪の言葉はもちろん、植民地支配への言及すらない。
65年10月に開かれた批准国会で横路節男衆院議員は、「日韓会談の中心的課題である請求権そのものの処理をせず、経済協力というあいまいな形で取り決めることが、将来、必ずや両国の関係にとって大きな傷跡を残す」と喝破した。韓日間で折に触れ歴史摩擦が繰り返されるだけでなく、韓国では95年10月に国会議員106人が韓日条約の破棄を求める決議案を国会に提出するなど、抜本的な見直しを迫る動きがくすぶっている。
しかし、少なくとも日本の政府見解においては、韓国側に歩み寄ってきたのは事実だ。評価はさまざまに分かれるにせよ、韓日条約締結時とは雲泥の差がある。
条約締結当時は言うに及ばず、その後も長期にわたって、植民地支配に対する日本政府の見解は、韓国から感謝されこそすれ、謝罪する必要など微塵もないというものであった。会談は日本側代表のその種の妄言で、何度も中断された。典型は何と言っても、韓国に同情的で屈指の早期妥結論者とされた高杉首席代表の発言(65年1月)だ。
「日本は朝鮮を支配したというが、わが国はいいことをしようとした。山には木が一本もないということだが、これは朝鮮が日本から離れてしまったからだ」「日本は朝鮮に工場や家屋、山林などをみな置いてきた。創氏改名も良かった。朝鮮人を同化し、日本人と同じく扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫とかいうものではない」
ここまで言うかどうかはともかく、保守と革新を問わず、日本人の間に歴史の清算という認識は欠落していた。条約締結を報道した各紙の記事や社説は、有償・無償8億㌦の資金供与を「経済援助」とするだけで、謝罪・賠償という視点がまったくない。
63年1月の参議院で共産党議員が、「朝鮮人民に対する非道の数々について、総理は真剣に反省しているか」と質した。池田首相の答弁は「日本の非行に対しては、私は寡聞にして十分存じておりません」という傲慢なものであったが、日本の国会で植民地支配に関して「反省」が問題になったのは、実にこれが初めてであった。
65年2月、金浦空港に降り立った椎名外相は、「両国間の永い歴史のなかに、不幸な期間があったことは、まことに遺憾な次第でありまして、深く反省するものです」との声明を発表した。椎名悦三郎氏はかつて(62年)、「台湾を経営し、朝鮮を合邦し、満州に5族協和の夢を託したことが、日本帝国主義だというなら、それは栄光の帝国主義であり…」と語っていた人物だ。到着声明は韓国向けの便宜的なものであるうえに、反省主体が政府なのか、外相個人なのかは定かでない。それでも、閣僚が反省の意を表明したのはこれが初めてだったのである。
経済地位向上…韓国側に自信 その後、両国間で歴史認識問題が焦点になることはほとんどなかった。その「余裕」がなかったというのが実情だろう。73年の金大中拉致事件、74年の文世光による朴正煕大統領狙撃事件などによって両国関係は極度に悪化した。その流れは止まらず、民主化運動の高まりに呼応して、日本メディアの朴政権バッシングは激しく続いた。歴史認識問題どころではなかった70年代は、しかし一方で、それを浮上させる土壌を育んでいた。 The Best Tem Paper Writers You Are Looking For There are lots of
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「漢江の奇跡」と呼ばれた韓国経済の高度成長は、韓国の国際的な地位を向上させ、国民に自信を植えつけた。韓日の経済関係は深まり、相互補完性が強くなったことを背景に、相互理解を必要とする空気が広まった。日本では民団が主導して、日韓親善協会や日韓議員連盟の結成が着々と進展していた。
また、同胞が日本社会のさまざまな差別を撤廃させる動きを活発化させたことで、植民地政策によって派生した在日社会の実態そのものが日本の歴史的責任として意識化され、同胞を支援する日本人の輪が拡大し、マスコミの姿勢も大きく変わりつつあった。その典型が日立就職差別闘争(70年、朴鍾碩氏が通名で合格後、韓国籍を理由に内定を取り消された事件)であろう。
歴史教科書のアジア「侵略」を「進出」に書き換えさせた検定姿勢が韓国や中国から問題にされた82年、日本政府は「我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大な苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意」を表明し、この精神を検定基準(近隣諸国条項)に盛り込むことで事態の収拾を図った。
30年もたって、村山首相談話 中曽根首相が「公人」として靖国神社参拝を強行した85年、韓中両国は猛反発した。それ以降、現在の小泉氏が登場するまでは靖国神社を公式参拝した首相はいない。韓国は日本政府要人の「妄言・失言」に対して、そのつど強い抗議の姿勢を見せた。日本メディアも「妄言・失言」をオフレコの場合も含めて積極的に報道するようになっていた。日本政府要人からは「自虐報道」と指摘する声も上がったくらいである。
95年の「戦後50年にあたっての村山首相談話」は、当初の内容より後退はしたものの、「植民地支配と侵略」の事実を認め、「痛切な反省」と「心からのお詫び」も表明された。この談話は、98年に金大中大統領と小渕首相が未来志向の韓日関係を築くべく謳いあげた共同宣言の基礎となり、アジア諸国と歴史認識でもめるたびに日本政府の公式見解として持ち出されるようになった。
政府見解に限ってみれば、韓日会談当時に比べ大幅に改善された。しかし、政府見解をなし崩しにし、空洞化させようとする言動は保守政治家を中心に後を絶たない。靖国神社への公式参拝をやめようとしない小泉首相のもとで、その傾向は顕著になった。現職閣僚でありながら「創氏改名は良かった」、「従軍慰安婦はいなかった」など、公式見解に反する発言をしても政府部内ではほとんど問題にされなくなった。「近隣諸国条項」の破棄も公然と唱えられ、アジア侵略を合理化しようとする歴史教科書を政官財あげて普及させようとする動きもある。指導層の歴史認識は、韓日会談当時に舞い戻った感すらある。
だからと言って、日本社会全体がそうなっているわけではない。保守政治家のなかにも政府見解を尊重しようとする人は少なくなく、メディアや一般日本人の多くが侵略・戦争の正当化に反対し、歴史認識をアジア諸国と共有しようとしている。40年前にはまったく見られなかった現象だ。
歴史認識をめぐる葛藤は今後も長期に続くだろう。であればこそ日本には、政府見解を建前として飾っておくのではなく、その内実化に取り組む真摯な姿勢がますます要求されるはずである。
(2005.06.22 民団新聞)