掲載日 : [2005-07-13] 照会数 : 7089
在日百年 〈物〉が語る歴史 第2部−7
[ 1949年7月に撮影された当時の朝鮮奨学会 ]
34年竣工の朝鮮奨学会…監視から援護機関に
日本には韓国併合前から留学生が来ており、韓国公使館の学事部で留学生の監督をしていた。その後は朝鮮総督府が学生の対策を行ってきたが、留学生達は総督府や公安当局の監視をかいくぐり、2・8独立宣言を発表して3・1独立運動を始めたり、新しい民族運動の知識や社会主義思想などを朝鮮に広める役割を果たした。
その後も教育熱心な風土を背景に、向学心があった朝鮮人青年達は次々に日本に留学してきた。1941年には中学生、各種学校生から大学生まで2万6千404人にもなった。一方、日中戦争は拡大し、1939年から朝鮮から日本への労働動員が始まり、留学生を含めた監視体制の強化が必要になり、朝鮮人管理組織である協和会を作り、組織的にはこの中に奨学会をつくった。
太平洋戦争が始まった1941年には朝鮮奨学会に、1943年には財団法人朝鮮奨学会になったが、治安対策や学生の日本人化を図る皇民化政策の推進が本質的な活動内容であった。
写真にある建物は1934年に竣工した。当時は朝鮮総督府内の朝鮮教育会奨学部が管理していたが、1941年2月からは朝鮮奨学会となり総裁は前朝鮮総督南次郎。当時の地番は「東京市淀橋区角筈2丁目」。
朝鮮に進出し財を成した野口遵が朝鮮総督府に寄付した資金500万円で活動したといわれている。学徒志願兵募集の中心になっていたことなどから、差別のあった宿泊施設や就職の斡旋もしていたが学生には評判が悪かったようだ。
解放後は朝鮮人学生運動の拠点になったが、財団法人としての朝鮮奨学会は存続した。写真は1949年7月に撮影されたものだが、当時の面影を伝えている(写真寄贈者は東京都杉並区に住む康順善氏)。
一時は混乱もあったが1957年に民団、総連、日本人学識者で理事会を再建し、その後は在日同胞学生の奨学援護機関として着実な発展を遂げている。1961年からの本格的な奨学金給付の再開以来、2003年度まで高校奨学生、大学奨学生は延べ5万8千人に及ぶ。
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在日コリアン歴史資料館調査委員・樋口雄一
(在日朝鮮人運動史研究会代表)
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(2005.07.13 民団新聞)