掲載日 : [2005-07-13] 照会数 : 10532
<北関大捷碑>南北合意…故地返還に現実味
[ 靖国神社の一角に置かれている「北関大捷碑(ほっかんだいしょうひ)」 ]![](../old/upload/42d4a83a7be9a.jpg)
北関大捷碑がなぜここに…靖国神社の本質を考える
戦勝祝う「軍事神社」〞厳肅さ〟演出…日本の敗戦後
靖国神社の一角に置かれている「北関大捷碑(ほっかんだいしょうひ)」が、いよいよ故地に返還されることになりそうだ。先月の南北長官級会談でも、返還実現に協力することで合意している。この碑は16世紀末、豊臣秀吉の侵略軍を破った義兵を称えるもので、旧日本軍が韓半島から持ち出しずっと靖国神社に置かれていた。神社では、南北の協力があれば返還すると言ってきただけに、返還交渉が現実味を帯びて来た。この碑がなぜここにあるのか。その真相を探りながら、靖国神社という「軍事神社」の本質を考える。
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神社資料は碑に触れず…本殿脇に目立たぬよう
靖国神社に「北関大捷碑」が置かれていることは、一般にはほとんど知られていない。神社が発行しているパンフレットや、神社創建百周年のときに発表された神社の公式資材記録集にも、この碑についての記載がない。しかし、靖国神社の敷地内にこの碑はひっそりとではあるが、今も確かに置かれている。
数年前までこの碑は、神社敷地内にある遊就館(ゆうしゅうかん)と呼ばれる建物の前に置かれていた。遊就館には、人間魚雷、特攻機などの戦闘機、軍艦の模型、兵器・武器などのほか、いわゆる英霊の顔写真、戦没者の遺書・遺品、軍服などが展示されている。幕末から第2次世界大戦終了に至る、軍事に関する資料を集めた軍事博物館である。
この建物の前が以前は広場になっていて、いくつかの大砲などや大きな蒸気機関車が置かれていた。この機関車は、太平洋戦争中に旧日本軍がタイとビルマの間に建設した、いわゆる泰緬(タイメン)鉄道を走っていたものである。この鉄道は、大量の連合軍捕虜やアジア各国から集められた労働者を酷使して建設されたもので、捕虜や労働者から多くの死亡者が出て、旧日本軍の「捕虜虐待」の典型的な例として東京裁判でも取り上げられた「悪名高き」存在である。アメリカ映画「戦場に架ける橋」のモデルにもなった。その「死の鉄路」を、この蒸気機関車が走っていた。
機関車のすぐ脇に、靖国「名物」の白い鳩のための鳩舎があって、鳩舎と機関車の間の目立たない場所に、「北関大捷碑」はかつて置かれていた。しかも、屋根もなく野ざらし状態で(現在は、碑に木製の小さな屋根がかけられ、突っかえ棒で支えられている)、鳩の糞にまみれていた。
その後、遊就館の拡張にともなって、広場にあった蒸気機関車や大砲などは建物内に収められ、碑は別の場所に移されることになった。現在は、本殿に向かって左脇にある、元宮並びに鎮霊社とよばれる小さな祠の横に置かれている。
場所は変わっても、やはり神社の資料には記載がなく、その気になって探さないと見つからない。しかも、以前は身近で見ることができたが、現在は本殿脇ということで、塀越しに10メートルほど離れた場所からしか眺められない。碑文も肉眼では読めない。身近で見ようとするには、元宮や鎮霊社参拝を申し出てついでに見るか、神社に特別拝観を申請する必要がある。
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豊臣軍を撃退した義兵を称える碑文
碑文の内容は、次のようなものである。
昔、壬辰の乱のとき、果敢に戦って敵を破り、その武勇が一世に鳴り響いた戦(いくさ)がある。水上では李忠武の閑山島の戦であり、陸上では権元帥の幸州の戦であり、李月川の延安の戦もある。これらは歴史に記録され講釈師が繰り返し語ってきた。
しかしこれらの戦は、地位が有り、軍資金や兵力に恵まれていた者によるものである。力無く逃げ隠れていた者を奮い立たせ、規律が乱れていた者に忠義を感じさせて、ついに完全勝利を克ち取り一地方を奪還した、北関の兵が最も優れていたのである。
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韓国から持ち出した理由
保護国化の〞土産〟…「日本史」創出工作の一環
この碑は、もともと咸鏡北道吉州牧臨溟駅にあった。北関大捷碑の「北関」とは、咸鏡北道・摩天嶺以北地域のことで、「大捷」とは「大勝」の意味である。秀吉の第一次朝鮮侵略(壬辰倭乱、文禄の役)のとき、吉州一帯で加藤清正軍と交戦し、ついには撃退した義兵の将・鄭文孚(チョン・ムンブ)の功績を称えたものだ。
秀吉の朝鮮侵略のとき、朝鮮や明の正規軍とは別に、各地の実力者が地元の農民などによる義兵を組織し、勇猛果敢に戦っていた。咸鏡北道では、鄭文孚を将とする義兵が有名である。
金石文として歴史上重要な資料であり、そのまま母国にあれば国宝クラスの文化財がなぜ靖国神社にあるのだろうか。
日露戦争当時から、日本は韓国のロシア国境へ軍隊を派遣していた。そのとき吉州に進駐した日本軍の北韓進駐軍司令官後備第2師団長であった三好成行中将(池田少将との説もある)が、終戦後の1905年に帰国したさい(1907年という説もある)、日露戦争勝利と乙巳条約(第2次韓日協約)締結による韓国保護国化の戦利品、いわば「凱旋土産」としてこの碑を持ち帰ったとされている。
もちろん住民は、故郷の誇りである碑の持ち出しに反発した。そのときの地元住民への説得理由が、「碑文に書かれている、義兵が清正軍を破ったという内容は、日韓の親睦を保つ上で感情的に障害になる。撤去し、日本に持ち帰る」というものであった。名目は何であれ、当時の韓国の一地方住民には、日本軍の意志に屈服するしかなかったのであろう。
この頃、日本陸軍の参謀本部は、朝鮮半島や旧満州地域に多数の諜報員を派遣して、金石文の大掛かりな調査を展開していた。言うまでもなく、それらの記述をアジア各地への侵略に歴史的な整合性を持たせるように「解釈」するためである。その典型が、有名な「好太王碑」である。
「好太王碑」の碑文に改竄(かいざん)があったかどうかの議論もあるが、碑文にある「倭」が記紀(古事記と日本書紀)の記述にある、いわゆる「大和朝廷」と同じもので、「神功皇后の新羅征伐」や「任那日本府」の実在という、その後の「古代史の常識」(実は歴史的には非常識)は、この頃はまだ必ずしも歴史学者の間で確定されてはいなかった。参謀本部による金石文の恣意的解釈がその後の「古代史の常識」を生んだのである。
一般的に言えば、考古学は近代国民国家の成立過程で誕生し、ナショナリズムの高揚に貢献してきた。近代国民国家は、「国民の創生」のために「国民の来歴」を「正しく」跡づけ、「伝統の創出」を必要とする。当時の日本はまさに、歴史的なつながりの深い韓国を舞台に、都合の悪いものは消去し、都合のいいものは拡大解釈することで、「伝統」を創造・発明する過程にあった。
参謀本部は実は、「好太王碑」すら日本に持ち出そうとしていた。しかし、あまりに重すぎたので断念したとされている。北関大捷碑の持ち出しも、そういう文脈の中で考えたほうが合理的だろう。
碑文が書かれている高さ三メートル近い石板の上に、直径一・五メートルほどの石を帽子のように乗せた韓国式のこの碑は、動かすだけでも相当大掛かりなものになるはずだ。一地方の司令官である中将や少将の、個人的な「戦利品」とは考えにくい。
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軍のショーウインドー…お祭り騒ぎの場にも
広島に一旦上陸したこの碑は、皇居内にあった「振天府」という戦利品を収蔵する場所に献上するという名目で、東京に向かった。「振天府」とは、台湾出兵や日清戦争の戦利品を収蔵するという目的で、明治天皇が皇居内に造らせたとされるものである。しかしこの碑は「振天府」に入らず、直接、靖国神社に運ばれたのではないか。
1945年8月15日の日本敗戦まで、靖国神社を直接管轄していたのは陸軍省と海軍省で、靖国神社とはまさに「軍人神社」そのものであった。英語表記の「Military Shrine」が、その本質を正確に表している。そのため、戦後の靖国神社も、各地の一般神社を統括する神社庁には属さず(GHQが許さなかった)、今も単独の独立宗教法人である。
日露戦争直後から、日本軍直轄の靖国神社の敷地では、戦利品を展示する「戦勝博覧会」が何度も開催されていた。明治時代の錦絵や写真には、その様子が描写されている。それらを見ると、「戦勝博覧会」会場には屋台や見世物小屋まである、まさに戦勝に浮かれたお祭り騒ぎのイベントである。
北関大捷碑も、そんな展示用の戦利品として、直接に靖国神社に持ち込まれた可能性が高い。その後も靖国神社では、極端に言えば1945年の敗戦まで、「戦勝」のお祭りイベントが何度も開催されていた。振り返ると、太平洋戦争に敗れるまで、「官軍」は幕末の戊辰戦争以後、戦争の実態はともかく、ずっと「勝ちいくさ」ばかりだった。まさに文字どおり「勝てば官軍」神社だった。
「勝ちいくさ」のたびに、靖国神社ではお祭り騒ぎのイベントが開催され、中には派手でいかがわしいような見世物も出ていた。戦前の一時期、靖国神社の敷地内に、浅草の六区や奥山のような歓楽街を造る計画すらあった。いつもこの場所でお祭り騒ぎが行われていたからである。靖国神社が「英霊の魂を鎮める」という厳粛さに「転じた」のは、最後の戦争が「負けいくさ」だったからである。それまでの靖国神社とは、日本軍の「ショーウインドー」として、戦利品を眺めながら勝利に浮かれる「ハレ」の空間だった。遊就館は、それらの戦利品の収蔵館でもあったのだ。
もちろん、戦争で亡くなった兵士の遺族にとって、「戦勝の祭り」であっても辛いものであろう。しかし、勝ちいくさへの貢献という《大義》に参画できたことで、靖国神社の祭神に加わることは誇りとなっていた。
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「祭神」のパラドックス…敗戦を機に定義逆転
靖国神社は、他の伝統的な神社とは性格が異なるという識者が多い。主な伝統的神社には、敗者の怨霊を鎮めるという大きな役割があったからである。大和朝廷に敗れた出雲大社や、太宰府に流された菅原道真を祀る天神社などはその典型である。
ところが靖国神社には、戊辰戦争や西南戦争などの敗者(例えば白虎隊の志士や西郷隆盛など)は祀られていない。日清戦争以降の交戦相手国戦没兵士も祀られていない(朝鮮と台湾出身兵士だけは、当時は日本人だったとの理由で祀られている)。その後、近代戦争では日本はずっと勝者だった。ところが、1945年の「最後の敗戦」で、それまで勝者の立場にいたはずの靖国の祭神は、一挙に全柱が立場上は敗者となった。
しかし、今も神社ではそれまでの戦争の《大義》は否定していない。ところが事実上、靖国神社と祭神遺族の立場は逆転した。靖国も日本の伝統的神社と同じように、一見「無念を抱いて死んだ魂」を鎮めるという役割を担っているかのように見え始めてきたのである。小泉純一郎首相の参拝理由もこんなところにあるのだろうか。
ところが、明治維新の官軍側志士から神風特攻隊員に至るまで、敗戦前の死者たちは「最後の敗戦」を知らないのである。全員が《大義》に殉じた「栄光」を背負っての死である。「敗戦の屈辱」という「無念」を抱いて亡くなった魂は、皮肉にもA級戦犯として処刑された人々だけである。彼らこそ、靖国神社から初めて日本の伝統的な「無念や怨蹉を抱いた魂の鎮め」を受けた祭神ということになる。ここにこの神社のパラドックスがある。
そして同様に、《大義》の「戦利品」としての北関大捷碑も行き場所を失ない、野ざらしにされることになった。現在この碑には、事実上「敗者の屈辱」はない。それは旧植民地という広義の交戦国、つまり名目上の戦勝国のものであるからだ。「戦利品」の価値が消滅したということは、《大義》そのものも本来の意義を失ったと言えないだろうか。
数奇な運命をたどった碑に、やっと故郷に帰るチャンスが訪れようとしている。
靖国神社では、この碑を韓国と北韓が相互に納得すれば返還すると言ってきた。戦後ずっと南北は分断、対立状態にあり、実際には返還は難しいと考えられてきた。金大中前大統領の「太陽政策」以降、返還が現実味を帯び始め、盧武鉉大統領時代になって、かなり現実的な課題となった。具体的な返還方法はまだ煮詰まっていないようだが、北関大捷碑がもともと立っていた故地に戻るのは、もう時間の問題である。
(2005.07.13 民団新聞)