掲載日 : [2005-08-15] 照会数 : 8442
<光復節60周年>在日同胞社会の特性
さらに強まる「共同性への希求」
知っておきたい在日同胞社会の特性
約670万という人口を数えるようになった海外同胞社会のなかで、祖国分断の影響を最も大きく受けてきたのが在日同胞社会だ。解放後の歴史はながい間、韓国民団・朝鮮総連という2大組織の葛藤によって彩られてきた。これは在日社会だけの特異な現象である。しかし、両組織の幹部を含む多くの同胞たちは、さまざまな葛藤のなかでも家族の絆はもちろん、在日同胞社会の絆を確かめ合いながら、ひたすら前向きに生きてきたといえる。そこに強い共同体意識を見る。
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在日同胞社会の際立った特徴は、在日朝鮮人連盟(朝連)、在日朝鮮統一民主主義戦線(民戦)の基盤を継承し、北韓支持を鮮明にした朝鮮総連が結成(1955年)されて以来、祖国南北に対応する形で2大組織が併存してきたことだ。しかしこれを、他の海外同胞社会にはない分裂と対決の歴史としてだけ、単純に見るべきではない。
「在日主義」のあり方を模索
在日同胞には半面で、歴史的背景を共有する共同体の仲間として2大組織の枠を超えた相互扶助があり、和合への強い希求も一貫していた。それが途切れなかったからこそ、親睦行事はもちろん、無年金者救済や歴史教科書問題での行政交渉、日帝時犠牲同胞の慰霊事業など、多分野にわたる民団・総連の共同活動が全国で積み重ねられてきたのだ。
また、国籍問題など居住国との関係、祖国南北との政治的・心情的な関係について、社会全体としてあるいは個人としてそのあり方を真摯に模索し、多様な論議を展開してきたのも在日ならではの特徴である。光復から60年を経る過程で、祖国南北との関係を優先し、その立場から同胞社会を規制しようとする力学は弱まり、「在日は在日であれ」という立場から国籍や所属を超えた望ましい同胞社会のあり方を追求し、祖国南北との関係を見つめなおそうとする力学が強くなってきた。
こうした傾向を「在日ナショナリズム」と呼んで注目する研究者も現れている。多くの在日同胞の心情は、歪んだ歴史認識に基づく日本のナショナリズムには抗しても、祖国南北のナショナリズムと安直に同一化するわけではない。「すなわち、政府・領土・言語・国籍などに回収されえない、ある種の共同性の希求に『民族主義』という名称がついている状態」(小熊英二著『〈民主〉と〈愛国〉‐戦後日本のナショナリズムと公共性』。新曜社)とする見解である。
その状態に、ナショナリズムという名称を冠することの是非はともかく、在日ならではの「共同性の希求」があることに異存をもつ同胞は少ないだろう。何よりこの性向は、在日社会の特異性に根づいたものであるからだ。
植民地支配に源泉的な要因
在米同胞社会は国策移民を起源とし、1966年以降の移民を中心に形成されている。在中、在ロ同胞社会は、植民地時代に量的膨張を見たという点で在日と共通するものの、韓半島と陸続きという条件によって、在中、在ロ同胞とも植民地期以前からコミュニティーを形成していた。植民地支配がなければ派生しなかった在日社会とは、源泉的な要因が異なる。
在米同胞は、米国人として生きていくことを前提としている。在中、在ロ同胞は、多民族国家を標榜してきた旧ソ連、中国の政策的な融和・圧力によって、ごく少数の例外を除けば居住国の国籍を取得して現在に至った。在日同胞の場合は、日本政府がサンフランシスコ講和条約の発効と同時に、一片の通達によって一方的に日本国籍を喪失させた経緯があるにせよ、大半が韓国籍・朝鮮籍を今なお保持している。半世紀以上も居住国の国籍を取得しない存在は、海外同胞社会ばかりでなく、広く国際社会を見渡しても稀有だろう。
在ロ同胞にはスターリン政権下の強制移住・ディアスポラがあり、在中同胞には文化大革命時の大弾圧があった。在日同胞には戦時下の強制労働などにともなう惨劇があり、関東大震災時の大量虐殺があった。ともに、筆舌に尽くしがたい民族的な悲劇を経験している。
しかし、居住国との葛藤の側面でも在日にはやはり特異性がある。
ソ連は80年代後半に、ペレストロイカを経て崩壊し、在ロ同胞は故地・沿海州への原状回帰を進めている。文化大革命も80年代に入って、「重大な歴史的誤り」として全面否定され、改革開放体制のなかで在中同胞の名誉は回復された。容易に癒されない傷とはいえ、在中、在ロ同胞にとって居住国の体制転換の意味は大きい。
また、中国、ロシア(旧ソ連)は米国とともに、日本を打倒した連合国であり、その戦線で在中、在ロ同胞は重要な役割を果たした実績もある。誤解を恐れずに言えば、民族的なカタルシスにおいて、在日同胞にはないものがあったはずである。
日本は敗戦国となっても体制の実質的な転換をせず、指導層は温存され、同胞に対する政策は戦後も戦前のそれを踏襲した。同胞は民団を先頭に、それにめげることなく法的・社会的地位を向上させ、共生理念を日本社会に広く浸透させるまでになった。しかし、在日同胞社会の形成・存在と不可分の植民地政策について、同胞と日本指導層の歴史認識はねじれたままであり、むしろここ数年は問題が深刻化している。
日本との対抗、何よりも優先
在米はもちろん在中、在ロ同胞社会には見られない、居住国との抜き差しならない葛藤を抱えているのは、在日同胞社会だけである。他の同胞社会と在日社会との違いは次のように整理できるだろう。
第一に、植民地政策の影響を直接的かつ最も強く受けて形成された。第二に、統治が徹底して政治を含む諸般活動が困難な支配国本国に存在した。第三に、日本は排他的な単一民族国家史観に立ち、少数民族政策を持っていなかった。これに加えた戦後の条件として、第四に、東西冷戦下で日本は韓国とともに西側陣営にありながら、長期にわたって左翼勢力が強力だったことを指摘しておかなければならない。
この4条件が絡み合い、在日同胞社会には際立った二つの特性が育った。
一つはある種のまとまりのよさである。解放以前の在日社会にも民族派、親日派があり、共産主義者もいれば無政府主義者もいて思想・信条は多様でも、革命期のロシアや半植民地下の中国で見られた同族間の凄まじい葛藤は体験していない。徹底した統治下で、政治活動が地下にもぐらざるを得なかったことがまずある。それ以上に重要なのは、日本は国策遂行に動員するために、同胞を「日本人」として「融和」の対象にしながら、実際は「非日本人」として抑圧・拒絶し続けたことにより、同胞たちは生活を守るために支配者・日本との対決を何よりも優先する状況にあったことだ。
だからこそ、解放直後の10月という早い時点で、それまでに全国で自然発生的に生まれた同胞団体だけでも300余を数え、相互に連絡が不十分であったにもかかわらず、思想・信条を超えて朝連に糾合されたのである。ここにこそ、今日の在日同胞社会の原点と共同体としての証しがあると言えるだろう。
組織の枠超えた共同体意識…歴史認識が支え合う
和合への欲求、熟成は十分に
しかし、同時に培われたもう一つの特性は、同胞社会を分裂させる要因になった。その特性とは、支配国・日本との闘いを通じて、最も組織的に訓練された同胞集団が左翼勢力だったことだ。戦時下や敗戦直後の日本の労働運動、共産主義運動の担い手は同胞たちであり、朝連結成を主導し指導部を牛耳ったのも彼らであった。そして、朝連とそれを継承した民戦指導部は、民族問題を日本の階級闘争に従属させ、日本革命という過激な闘争に同胞を駆り立てていく。
居住国と祖国いずれの庇護にも恵まれず、寄る辺なき民であった在日同胞にとって、唯一の支えは自らの共同体のほかにない。抜き差しならない因縁があるとは言え、日本という他国の革命闘争に走るのは反民族的行為であり、共同体を破滅に導きかねない。この危機意識から結成されたのが民団だ。
一般に左右分裂と呼ばれるこの事態が、不当で過激な政治闘争か、生活重視かの対立を内実としていたことを軽視すべきではない。民団は「生活人」・「国際人」という朝連に対抗する概念を全面に、自らを思想・政治団体ではないと規定し、特定の政治的な主義・主張とは一線を画すことを繰り返し表明している。
分裂事態を左右対立で括る場合、確認しておかなければならないのは、それが48年の南北政府樹立以前のことであり、決して南北の権力によって系列化されたからではなく、在日社会の特性によっているという点だ。南北に対応する形で2大組織が併存するのは、55年の総連結成以降である。
この在日同胞版55年体制の確立から50年が経過した。在日同胞として60年前の原点に返れば、2大組織が対立と不信を超越し、その一方にあった和解と和合の欲求を熟成させるには十分な歳月だ。
他の海外同胞社会と決定的に違って、在日同胞社会は支配国本国に形成され、自らの存在経緯と自尊心にかかわる歴史認識をめぐって、緊張関係を強いられ続けてきた。民団、総連はこの厳しい歴史を共有している。しかも緊張は、緩むどころか強まろうとしている。「共同性の希求」に、素直に応えるべき時期はとうにきている。
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主な海外同胞社会の成り立ち
【在米社会】…60年代半ばから急増
2003年1月、ハワイで「美州韓人移民100周年記念式典」が開催された。大韓帝国時代の第1次国策移民の上陸年を起点とした祝祭だ。1903年以前の在米同胞は、学生・外交官・商人・労働者ら約50人。しかし、1905年までに移民はほぼ7000人に達したという(ブルース・カミングス著『現代朝鮮の歴史‐世界の中の朝鮮』・明石書店)。
しかし、第2次世界大戦後の45年8月時点で、同胞人口は7000人を少し上回る水準だったとされる。その後も、米国のクォータ制度による移民制限で、正式には年間200人程度しか認められず、65年当時の同胞数は3万5000人に過ぎなかった。移民が急増したのは、韓国がベトナム戦争に派兵した66年以降、移民の特別枠を与えられてからだ。
その後も制限の強化・緩和を経て、移民は現在も続いており、在米同胞数はざっと230万人を数える。
在米同胞社会の主体は、東西冷戦が厳しかった時代の移民たちだ。しかも、伝統的に共産主義勢力が育たなかった西側陣営の総本山に形成された。韓国戦争の一時期に、少数のシンパの活動が確認されたくらいで、北韓支持勢力は公然化していない。
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【在ロ社会】…沿海州へ再移住進む
昨年10月、モスクワ近郊の国立セルビンカ墓地で、全ロシア高麗人連合会が主催する韓民族ロシア移住140周年記念行事が開催された。
移住開始時期には諸説あり、1811〜2年に朝鮮北部一帯で起きた洪景来の乱に関連した沿海州への流民に始まるともいう。在日、在中と同じく植民地政策が過酷になるにともなって移住が増え、1920年代には沿海州を中心とした極東地域に20万が居住、大学を設立し、新聞も発行していた。
しかし、海外同胞社会のなかでは最も過酷な歴史を負わされてきた。帝政ロシア時代の同胞は、ロシア帰化者と非帰化者が対立、日露戦争時にはロシア兵士として動員され、日本軍に動員された同胞と銃火を交えたばかりか、革命期には白軍、赤軍に分かれての殺戮戦も経験している。
しかも、スターリン政権下の1937年、日帝スパイの温床と見なされ、中央アジアに着の身着のままで強制移住させられた。これに反対して粛清された同胞は、2000人を超えたとされる。
現在はロシアに15万、ウズベキスタンに20万、カザフスタンに10万と、CSI諸国には約50万人の同胞が居住している。ソ連崩壊後、CSI諸国に民族主義的な感情が高まって同胞への迫害が続き、中央アジアから故地である沿海州への移住が進んでいる。ロシア国籍拒否者(無国籍)が例外的に存在している。
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【在中社会】…延辺に朝鮮族自治州
中国東北部への同胞の移住は、1880年代の一連の大凶作によって本格化した。81年時点で延辺には1万人が居住し、1900年代初期に入って10万人に急増したとされる。03年には自らの地域的な自治組織である郷約を設立した。05年には韓国政府が観察使を派遣し、同胞の生命・財産を守るために私兵を組織している(李采畛著『中国朝鮮族の教育文化史』・コリア評論者)。
移住中心部の間島は、韓国語音で近い「墾島」・「墾土」ともいわれ、越境農民たちの新天地であった。植民地化にともなって移住は急増し、1930年には間島の人口100万のうち同胞が8割を占め、東北部全体では200万人に達した。
だが、植民地化の日中戦争を生き抜く過程で、民族派・親中派・親日派などに分裂し、それに対応する国籍を持った。満州国時代には多くの同胞が満州と日本の二重国籍も経験している。
独立運動の系譜が強く、国共内戦時は中国共産党とともに、親日派残党、親国民政府派、親李承晩(韓国初代大統領)派を駆逐した。
間島の朝鮮人居住地域は52年9月、延辺朝鮮族自治州となった。02年9月にはその50周年を祝う式典が吉林省で開かれている。少数の朝鮮籍者を除いてほとんどが中国籍である。
(2005.08.15 民団新聞)