掲載日 : [2005-08-15] 照会数 : 9999
<光復節60周年>この60年…スローガンに見る
[ (上)建同・建青共催の解放1周年記念式典=46年8月15日、東京・日比谷公会堂、
(下)60年代、在日韓国人の法的地位要求貫徹を掲げ、行政交渉をする民団幹部ら(鄭清俊氏提供) ]
[ (上)77年、祖国のセマウル運動に呼応して、韓国の地に降り立った民団幹部、
(下)84年3月、指紋押捺撤廃などを求める181万余の署名を携え、全国の民団幹部が各政党に訴えた ]
生活者の一念が、共生社会を引き寄せた
光復節のスローガンは、在日同胞の置かれているその時々の状況を反映し、内外に民団の基本姿勢をアピールするものであった。①祖国の平和統一②在日の権利獲得③韓日関係の改善④同胞社会の和合‐など、在日韓国人の矜持を維持しながら日本で生きる上でのさまざまな要求を盛り込んできた。時代をさかのぼり、各年代のスローガンを振り返ってみたい。
■□■□■□
『1940年代』…在日同胞の生活安定
韓国籍獲得運動に着手
46年8月15日、東京・日比谷公会堂で開かれた在日朝鮮建国促進青年同盟(建青)と民団の前身である新朝鮮建設同盟(建同)共催の解放1周年記念式典は、民族問題を日本の革命闘争に従属させようとする在日朝鮮人連盟(朝連)に対抗し、共同宣言で民族陣営勢力の結集を呼びかけた。その後、在日本朝鮮人居留民団が同年10月3日に結成され、在留同胞の民生安定と教養向上、そして国際親善を期すという結成目的が宣言書に盛り込まれた。
同年12月には生活危機突破居留民大会を開いて連合国総司令部に決議文を伝達するなど、総力を結集して同胞の生活安定に奔走した。
47年5月に外国人登録証の常時携帯を強いる外国人登録令が公布・施行されるや、すぐに「反対委員会」を結成し、「排他的に生活権を阻止するものである。悪名高い協和会手帳と何ら変わらない」と批判した。
また、解放直後の9月、米ソ両国によって南北に分割統治された祖国に対しては、信託統治反対の要求を掲げ、48年4月に朝鮮総選挙に関する声明を発表、「国連の朝鮮独立案と統一国民政府樹立を目的とした総選挙を支持」との立場を明らかにした。当時のスローガンに「南北総選挙は国連監視下で」というものがある。48年8月15日の大韓民国樹立に先立つ7月21日、民団は国民登録事業の準備を全国に示達し、その後50年2月に公布された韓国の「在外国民登録令」を期に本格的な韓国籍獲得運動に着手することになった。
■□
『1950年代』…韓国戦争で臨戦態勢
在日の力を祖国再建へ
50年6月25日に勃発した韓国戦争。同族相殺という祖国存亡の危機に際し、在日同胞青年・学生らは自ら祖国戦線に志願した。民団は7月2日の緊急全国団長会議で自願軍派遣を決定。7月5日には東京に4000余人が結集して在日本韓民族総決起大会を挙行、①義勇軍志願受付と赤防基金及び戦災救済の金品募集②居留民自衛のため一致団結−などが決議された。
3年余におよぶ戦火のなか、民団も臨戦態勢で士気高揚に努めるとともに、休戦後は焦土化した祖国再建に尽くす姿勢を打ち出した。8・15スローガンは「民族自決原則による自由統一を戦取」(53年)、「国土完全恢復と統一独立戦取に妥協はなく、ただ以力滅共」(54年)、「在日僑胞の持てる力を祖国再建復興に尽くそう」(55年)など。
その一方で、韓日国交正常化に向けた権利要求も出始めた。「日本政府は韓日会談成立に誠意を尽くせ」(53年)、「在日60万僑胞の基本的人権擁護のため、政府は迅速に対策を」(54年)と続く。
さらに、日本に対しては恩讐を超え、「独立国民としての矜持をもち、日本国民との友誼を発展させよう」(55年)と呼びかけた。
59年12月の「北送事業」に対しては、同年新潟で「8・15北送反対闘争中央民衆大会」を開き、「北韓共産傀儡政権の陰謀」と激しく非難した。
■□
『1960年代』…韓日協定の充実期す
法的地位・永住権を柱に
60年代は韓日国交正常化と永住権確立が焦眉の課題であった。「日本政府は韓日会談に誠意を表示せよ」(60年)、「日本政府は北送中止、差別待遇を撤廃せよ」(61年)、「韓日会談促進と韓日親善を図ろう」(64年)がメーンになった。
65年になると、スローガンすべてが韓日協定に一本化され、「確保した永住権と待遇は、全僑胞が受けよう」「早期批准を要求する」「反対するあらゆる勢力を粉砕しよう」と訴えた。
民団はこの間、要望の中心である法的地位問題が思うように進展しない状況を黙過せず、韓日両政府に厳しく対応し、協定調印まで要求貫徹を主張した。
65年12月28日に韓日協定が発効し、66年1月17日から「永住権申請」が始まると、総連の妨害にも屈せず機関紙上で「わが家のしあわせ永住権から」と数次にわたるキャンペーンを張った。
また、アジアで初めて開催されることになった東京五輪を前に、韓国選手団への支援を視野に入れ、「東京オリンピック韓国選手代表を積極支援しよう」(64年)という文言を盛り込んだ。国交正常化以前に着手した本国選手団への支援は、その後、民団の恒例事業となっていく。
その一方で、68年1月に北韓武装ゲリラが青瓦台付近まで侵入する事件を重くみた民団は、「共産傀儡の武力侵犯を徹底的に粉砕しよう」(68年)と警鐘を鳴らし、続いて「朝総連の浸透工作を粉砕しよう」(69年)と組織防衛を全面に打ち出していく。
■□
『1970年代』…組織整備に全力傾注
南北声明を注視しつつ
70年代は民団内部に入り込んだ総連のフラクションによる策動で、組織内部に激震が走った。71年のいわゆる「東湖録音事件」をはじめ、暴徒100人以上が東京本部を襲撃するなどの未曾有の混乱事態に対して、全組織に非常事態宣言が出された。60年代に続き、組織防衛が柱となった時代だ。
「北傀と朝総連の赤色浸透を徹底的に粉砕し勝共統一なしとげよう」(71年)、「組織発展のため、あらゆる妨害要素と不純勢力を除去しよう」(72年、73年)、「朝総連の悪辣な民団破壊企図を徹底的に粉砕し、組織の強化拡充に全力をつくそう」(74年)と組織内部の引き締めが図られていく。
半面、本国では72年に南北共同声明が劇的に発表され、同胞社会にも平和統一への期待感が芽生えた。民団は「祖国の平和統一のため、南北共同声明を歓迎支持する」(72年)と呼応しつつも、「南北共同声明を悪用して、わが組織を撹乱しようとする一切の策動を排除する」(72年、73年)と警戒感を緩めなかった。そればかりか、十月維新体制の支持を表明。「祖国の平和統一のため、十月維新に積極参与しよう」(73年)、「セマウム運動で、祖国のセマウル運動に積極的に協力する」(74年)と組織整備へ全力傾注していった。
■□
『1980年代』…指紋押捺拒否に本腰
在日の権益運動に勢い
80年代は在日同胞社会の世代交代にともない、2世が台頭した時代と言える。74年の「日立就職差別裁判」勝利を受け、「在日同胞の民生向上と教育権の守護伸張のため一つに団結し、力をつくそう」という当時のスローガンから一歩踏み込み、高まる在日の権益擁護意識を背景に運動を牽引する具体的な権利要求が出てくるのがこの時代の特徴だ。
「国民年金を獲得し、在留同胞の権益拡大を期そう」「日本政府は国際人権規約にしたがい在日韓国人に対するすべての行政差別を撤廃せよ」「全組織は120日間運動に総力をあげ生活権確立へ尽力しよう」(以上80年)「日本政府は外国人登録の指紋押捺と常時携帯制度を即時撤廃せよ」(83年、86年)などだ。
また、韓日関係悪化の要因の一つ「教科書問題」が浮上したのも80年代で、82年には①教科書検定の史実歪曲と政府高官の妄言に強く抗議②過去の過ちの風化は、新時代を担う青少年の国際的視野と世界観に歪みをもたらす③史実に基づく、過去の韓日関係に対する明確な認識を培うことが、新しい時代の真正な韓日友好親善関係を図ることにつながる−−と、抗議文を発表した。
その一方、祖国で初めて開催されるソウル五輪を成功させようと、「88ソウルオリンピック後援事業に全力を傾注し、先進祖国創造の先頭に立とう」(83年、86年)という決意を示した。
■□
『1990年代』…同胞和合めざす努力
北韓へ核疑惑解消を要求
90年代に入り、韓国政府が南北韓の最高責任者会談開催を提唱したことを受け、北韓の開放と民主化、日本における朝鮮総連との同胞和合が全面に出てくる。
「北韓は最高責任者会談に即刻応ぜよ」「民間人の自由往来と相互交流を保障せよ」「朝総連は北韓の開放と民主化の先頭に立て」「われわれは同胞の和合と平和統一促進の先頭に立とう」(91年、92年)などである。92年以降は北の核開発疑惑が浮上したため、「核査察を受け入れて核開発疑惑を解消せよ」と要求していく。
また、日本の地域社会への参画と共生の担保となる地方参政権については、「日本政府は定住外国人に地方自治体参政権を付与せよ」(94年)と要求し、以降毎年のようにスローガンの中心になった。
同時に、共生社会実現のためには、在日同胞の存在が日本社会できちんと認められなくてはならないとの認識から、韓日共催が決まったサッカーW杯に触れ、「2002年ワールドカップサッカー共同開催を歓迎し、韓日友好の新時代構築と友好親善の増進に積極的に寄与する」(96年)と謳いあげた。
一方、日本社会の不況が長引き、民族金融機関も大きな打撃を受けたことを重視し、98年以降「同胞愛を発揮して民族金融機関強化に全力を尽くそう」というアピールも定着してきた。
■□
『2000年代』…地方参政権ぜひとも
祖国の平和定着へも尽力
2000年代に入ると、00年6月に実現した史上初の南北首脳会談が、91年の世界卓球選手権千葉大会の共同応援以来、着実に進展してきた民団・総連の関係改善にも波及効果をもたらし、日本各地で総連同胞との交流・和合事業が広がった。70年代の南北共同声明から約30年を経過して、再び統一への期待が膨らんできたのである。
00年以降、主なスローガンは「南北共同宣言を受け入れ、祖国の平和定着に尽くす」「同胞社会の統一のため朝鮮総連との交流を積極推進する」という未来志向の内容になった。
しかし、03年になるとまたも北の核問題が物議をかもし、この年のスローガンは反核一色になった。「北韓はわれわれの生存を脅かす核開発を即時中止せよ」「朝鮮総連は在日同胞の立場に立ち北韓の核開発阻止に立ち上がれ」「北の核開発阻止のための韓国政府の断固たる姿勢を支持する」「北の核開発を阻止し、韓半島の平和定着に積極努力する」といった具合である。
そして、光復60周年の今年は、1年後の創団60周年を視野に入れ、①南北共同宣言に立脚し祖国の平和定着に積極寄与する②同胞社会の和合のために朝鮮総連との交流を促進する③韓日間の友好親善を増進するため架橋的な役割を果たす④望ましい歴史認識を日本社会と共有するために努力する⑤共生社会実現のために地方参政権の早期獲得に全力を尽くす−−という基本姿勢を確認するものとなった。
■□
時代の要請考え 同胞の地位向上 さらに粘り強く
以上見てきたように、民団は創団以来、常に同胞の生活者団体としてさまざまな国籍の壁に風穴を開け、同胞の地位向上に努めてきた。と同時に民族の史上課題である分断祖国の平和統一に向け、在日の立場から統一運動を推進してきた。光復60周年を機に、民団はこれまでの実績を土台にしながらも、時代と同胞の要請を柔軟に受け入れながら、さらに飛翔していく。スローガンはその時々の民団の顔である。
(2005.08.15 民団新聞)