掲載日 : [2005-09-07] 照会数 : 11361
<民論団論>関東大震災虐殺の真相究明急げ
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関東大震災の死者数、見直しの動き
関東大震災による死者・行方不明者を、「14万2千余」から「10万5千余」に修正する動きが日本の学会で広がっている。市町村の個別データや多様な資料を再検討した結果、行方不明者と死者が3万〜4万人規模で重複していることが分かったからだ。この見直しは、朝鮮人虐殺の実態についても公に再照明する契機とすべきだろう。アメリカでも、1906年に起きたサンフランシスコ大地震の死者数を再調査する。来年の100周年に向けて、同市議会がこの1月に決議した。当時、差別や偏見のために、日本や中国からの移民が犠牲者としてカウントされていない可能性が高いという。決議では、「正確に死者数を把握することが、亡くなった人々を正しく記憶し、破壊の大きさを伝えることになる」としている。関東大震災から82年。日本政府や関係自治体にもその精神が求められる。
吉成繁幸(東京都・フリーライター)
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■□「世界の大恥辱」の思いを今に
朝鮮人虐殺という異常事態発生に、日本の良識的知識人たちの多くが大きな衝撃を受けた。だが、朝鮮人虐殺に対してはほとんどが沈黙している。その中で、事態に正面からきちんと向き合った少数の《本物》の日本人知識人がいた。
朝鮮人犠牲者の正確な人数は今も確定されていない。震災直後に来日した在上海の朝鮮系新聞社が派遣した実地調査団の検証によると、6千4百から6千6百人とされている。根拠の一つが震災後、収容所に入れられた東京と神奈川の朝鮮人が1万1千から1万4千人ほどで、東京、神奈川に住んでいた朝鮮人の数約2万から、収容された人数を差し引いたものを震災後に行方不明になった数とした。その全員が虐殺されたとは言えないにしても、6千5百前後という数字は実態とそれほど掛け離れていないと思われる。
◆日本人も襲われ
大震災発生直後から、東京市内は大混乱に陥り、翌日の9月2日、戒厳令が施行された。名分は《暴動の発生》である。この日、次のような無電が海軍船橋送信所(千葉県)から、内務省警保局長名で全国の警保局地方長官に送られた。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり、既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし」
この電文は全国を駆け巡り、早くも2日の夕方に東京や横浜で自主的に自警団がつくられ、3日には関東各地に自警団を組織するように警保局が指令を出している。
新劇の俳優・演出家として戦前から活躍していた千田是也(せんだこれや)は、本名は伊藤圀夫(くにお)という。19歳、早稲田大学聴講生だったとき関東大震災に遭遇した。彼は、自宅があった四ツ谷近くの千駄ケ谷で自警団に襲われた。その経験を忘れないようにと、千田是也(千駄ケ谷のコリアン)という芸名にしたと述べたのは有名だ。
実際、朝鮮人と間違われ襲われた日本人は多かった。見た目の区別はまず出来ない。自警団は「怪しい」人物に対して、朝鮮人が苦手とする言葉を発音させたり、君が代を歌わせたりしたという。しかし、緊急時でもあり、しどろもどろになる日本人も多かったはずだ。
当時、民俗学者としてすでに著名だった折口信夫は、沖縄旅行からの帰途、9月2日に神戸港で関東大震災の情報を知る。そのまま救護船に乗って横浜港に到着。4日に東京の自宅に戻ろうとして、深川付近で自警団に取り囲まれた。そのときの経験を『砂けぶり』という詩で表現した。
「(前略)横濱から歩いて来ました。疲れきつたからだです。そんなに、おどかさないでください。朝鮮人になつて了ひたい様な気がします。(中略)夜になった。また蝋燭と流言の夜だ。まつくらな町を金棒ひいて、夜警に出るとしよう。(中略)井戸のなかへ毒を入れてまはる朝鮮人‐。われわれを叱ってくださる神様のつかわしめだろう。(後略)」
戦前は、柳田国男とともに比較的国粋的な傾向があると考えられていた折口だが、やや抽象的ながら、神仏をもおそれないような、自警団による虐殺行為への強い憤りが満ちている。
◆知識人らの憤激
詩人では、萩原朔太郎が、「朝鮮人あまた殺され その血百里の間に連なれり われ怒りて視る、何の悲惨ぞ」と、虐殺への怒りを込めた詩を残している。当時、人気作家として活躍していた芥川龍之介は、関東大震災について各誌に10以上の文章を残したが、虐殺について直接触れているものもある。
自警団とは、各家の家主かその代理人が必ず出て町内の要所を警護することになっていた。芥川家では、風邪で発熱した日を除いて家主の龍之介が自警団に参加していた。そのときの経験を『或自警団員の言葉』という文章に残している。
「……我々は互いに憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、……尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と、激しく突き放した表現で自警団の行為を批判している。芥川は自警団に加わって目撃した竹槍やトビ口、棍棒などを手にして異常な興奮状態で朝鮮人を追い立てる人々に、激しい嫌悪感を持った。
その他、菊池寛との対談をまとめた文章では、菊地寛が「(朝鮮人が)大火の原因や、ボルシェビキ(ロシア革命を指導したレーニン率いる共産党)の手先というのは、みんな嘘だよ、君」との発言に対して、こう述べている。
「僕の所見によれば、善良なる市民というものはボルシェビキと□□□□(原文は戒厳令下のために伏せ字、不逞鮮人のことか)との陰謀の存在を信ずるものである。(中略)けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民たる資格を放棄したと見るべきである。善良たる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。(後略)」と、逆説的表現で、虐殺を行う《善良たる市民》の自警団を痛烈に批判した。
それにしても、右派の文化人と目されている菊池寛が、朝鮮人虐殺を批判している点は注目に値する。
朝鮮人虐殺に対して否定的な立場から言及している文学者は比較的多いが、思想家や学者などはほとんどいない中、唯一の例外とも言える存在が当時、東京大学教授だった吉野作造である。『朝鮮人虐殺事件に就いて』という論文で、「手当たり次第、老若男女の区別なく、(朝)鮮人を鏖殺するに至っては、世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱」と、当時としては勇気ある指摘をしている。
日本の関係当局は、当時の勇気ある、正鵠を射た発言を日本人の良心として思い起こし、震災100年で再調査を始めるサンフランシスコ市議会の決議の意味を肝に銘じるべき時だろう。
(2005.09.07 民団新聞)