掲載日 : [2005-12-07] 照会数 : 11857
<歴史資料館開館>韓国併合は民俗学も歪めた
[ (中)歴史資料館に寄贈された韓国併合当時の記念絵はがき、
(右)寄贈された記念絵はがきのもう1枚、
(左)1910年の韓国併合の際、日本側が発行した記念はがきの封筒 ]
歴史資料館開館を機に検証
「骨董品」では済まぬ 今に残る併合の傷跡
「在日韓人歴史資料館」に、三重県在住の日本人から匿名で「日韓併合紀念絵葉書」が寄贈された。包装紙は赤茶けていても、二葉の絵葉書は見るものをして、当時にタイムスリップしたかのように錯覚させるほど、鮮明な色彩を残している。生なましさを感じさせる絵葉書を見て、歴史の裏面にありながら実は隠然と大きな役割を果たしたある人物が想起された。『韓国併合ニ関スル条約』の起草にかかわった民俗学の巨人・柳田国男のことだ。明治政府官吏であった彼にあっては、「民俗学」の形成にも深く影を落としていた。
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植民地化進める条約起草に
日本民俗学の〞巨人〟柳田国男が関与していた
資料館に贈られた「日韓併合紀念絵葉書」が、96年間も保存されていた経緯は不明だが、現在は同じものをほとんど見かけることがないので、骨董品としての価値はかなりのものになるかもしれない。
絵葉書の骨董的価値は高くても、「韓国併合」そのものを、骨董品のように歴史の陳列棚にただ並べておくことはできない。今日に至るまで在日や韓国及び北韓の人々の心の中に深い傷を残している「韓国併合」とその経緯について、その歴史的真実が全て明らかにされているとは今でも断言できないからだ。
真実が明らかでない限り、正しい歴史的総括も出来ない。今までほとんど知られていなかった事例の一つとして、「韓国併合条約」条文起草に、日本民俗学の創始者でもあり、現在も日本民俗学会に強い影響力を残し続けている柳田国男が深くかかわっていたという事実に注目したい。
ところで、《併合》の表記に際し、絵葉書では「日韓併合」となっているが、ここでは日本帝国主義による「韓国併合」と統一する。何より条約そのものに「韓国併合」と記載されており、「日韓併合」とは言葉の詐術でもあって、事実はあくまでも日本帝国主義の「韓国併呑」(=植民地化)に他ならないからである。
韓国併合については、激しい論争が繰り広げられるだろう。間近に迫った来年は戌(いぬ)年であり、「韓国併合」の年の干支も戌であった。「戌年は収穫の年」とされ、「善し悪しはともかく、物事は何らかの決着に向かう」と言われるが…。
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民俗学者である前に政府官吏だった柳田
日本民俗学の祖ともいわれる柳田国男(1875‐1962)は、死後40年以上たっても、民俗学会に絶大な権威と影響力を残し続けている。今日でも、日本民俗学会とは柳田民俗学会であるともいわれている。
研究者の多くが、柳田の直弟子、孫弟子、ひ孫弟子たちであり、権威の中枢・柳田国男に対する本質的な対象化=内在的批判はほとんど見られない。批判とは学問的批判はもとより、研究の動機や姿勢までも対象とすべきであり、一方で「批判=発展的継承」でもあるはずだが、学会内部からはそれらの発言はほとんどない。
内部からはなくとも、最近はその周辺(文芸批評、日本文学、日本思想史など)の研究者からちらほら出始めている(川村湊、村井紀、子安宣邦など)。しかもその批判の矛先は、主に柳田国男自身の研究姿勢に対して向けられている。柳田民俗学の「原点」に、日本帝国主義=植民地主義の影があるのではないかというのである。それらに対して、学会内部からアレルギー反応のような対応は返ってくるものの、説得力ある反論はほとんどない。
日本民俗学の最高権威である柳田国男が帝国主義者=植民地主義者だといわれても、多くの読者には唐突な話だと思われるかも知れない。しかし、柳田自身がどう考えていたのかは別としても、立場上、柳田という人物はまぎれもなく「韓国併合」という《政策遂行》の中心人物の一人であった。
彼は民俗学者としての側面ばかりが際立っているが、本来は明治政府の優秀な官吏であり、日本帝国主義が進めていた植民地政策と無関係ではなかったのである。彼は東京帝国大学卒業(1900年)後、いったん、当時の農務省に入る。専攻が農政学(農業政策学)であったからだ。
しかし、すぐに官吏として頭角を現し、高等官である内閣法制局参事官に任じられ、法制局第一部に所属する(1902年)。ここは「内務外務軍制教育及ビ帝国議会ニ関スル事項」を担当する部署とされ、簡単にいえば国内の法令や外国との条約文章を起草していた。第一部そのものは翌年に廃止されるが、彼は1914年まで、旧第一部が担っていた職務を継続していた。
1910年8月22日に調印された「韓国併合ニ関スル条約」の起草に、柳田国男が深くかかわっていたことはまず間違いない。彼自身は法制局時代のことについてほとんど言及せず、併合条約への関与については全く口を閉ざしているが、併合の翌年、柳田に「韓国併合ニ関シ尽力其功不少」との名目で勲五等瑞宝章が贈られていることからも、かかわりが少なくなかったことは確かだ。
同時に叙勲した官吏は92人にものぼるが、当時8人いた法制局参事官からは柳田を含む4人だけに与えられており、彼の役割が大きかったことは疑いようがない。
しかも、柳田の《活躍》はおそらくそれだけにとどまらない。彼が法制局参事官になった1902年以降、1904年に第一次韓日協約が調印され、翌1905年に第二次韓日協約の調印、1907年には第三次韓日協約調印と悪名高き森林法・東洋拓殖株式会社法の制定、併合直後の1910年の臨時土地調査局官制・会社令の制定、翌1911年の、これも韓国人には恨み骨髄の土地収用令・森林令が制定されている。
柳田が法制局参事官であったとき、韓国「保護化」から「併合」へと、一連の「植民地化」が一気に進行していた。これらの条約や法律の起草に柳田がどの程度かかわったのかは不明でも、相当程度に関与していたと見るほうが自然だ。彼の叙勲は、これらの《活躍》に対してでもあった。
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初期「柳田民俗学」は植民地経営の方便か
法制局参事官として、韓国の植民地化実現への《活躍》を続けていたまさに同じ時期に、民俗学者・柳田国男も誕生しつつあった。柳田国男の民俗学デビューを飾る「三部作」としてよく知られている作品がある。『後狩詞記』(1909年刊)、『石神問答』『遠野物語』(ともに1910年刊)である。
特に『遠野物語』は日本民俗学の古典的名著とされ、現在でも多くの読者に親しまれているが、この作品を執筆していた同じ時期、同じ手で、「併合条約」等も書かれていたのである。
明治政府官吏と、在野の民俗学研究という二足のわらじを履いた柳田にとって、あくまでも本職は官吏のほうであり、三部作刊行当時、その売り上げはサイドビジネスというほどの成果もなかった。
ただし程なくして、『遠野物語』は芥川龍之介など一部の文学者などから注目され、彼は民俗学者として知られ始める。『遠野物語』序文に、「願はくはこれ(山人)を語りて平地人を戦慄せしめよ」という有名なフレーズがある。
三部作の中で柳田は、日本民俗史の中に「平地人」と「山人」との対立の構図を初めて描いたのである(山人の思考は、後になってなしくずし的に引っ込めるが)。この斬新な思考方法は大きな反響を呼び、「山人」は初期の柳田民俗学理解のキーワードとなる。
「山人」のアイデアは、台湾の「高砂族」と呼ばれた「先住民」や、朝鮮の「火田民」(朝鮮山人)からイメージしたという説が有力である。そのイメージを日本では、マタギ、クマソ、蝦夷(アイヌ)や被差別部落などに当てはめようとした。
柳田の思考の背景には、当時「成功した」と評価されていた、「植民地・台湾」の農政・土地政策がある。その政策のブレーンだったのが、柳田が尊敬し親交もあった新渡戸稲造である。新渡戸の農政・土地政策の要とは、クラーク博士で有名な新渡戸の母校・札幌農学校のアメリカ式土地収用法である。
非常に単純化すれば、近代的土地所有意識がない先住民(アメリカの場合は「インディアン」)から植民者が土地を奪い取り、それを植民者で再配分するシステムづくりである。日本の帝国主義=植民地主義は、まず台湾で大きな抵抗を受けながらも、近代的土地所有のない先住民などから土地を奪い取ることに成功していた。
もともと農政学(農業政策学)が専攻であった柳田は、台湾の「成功」に大いに関心を示し、彼自身も台湾に旅行までしている。しかし柳田は、台湾ではなく朝鮮の「植民地化」を遂行する立場にいた。彼は朝鮮の農政・土地収用にも非常に関心があったはずだ。朝鮮で「高砂族」に相当すると考えついたのが、同様に土地所有意識のない「火田民」である。
朝鮮に地主や小作農がいたにもかかわらず、土地収用の対象として「山人」を想定することにより、植民的な土地再配分政策を合理化しやすくなる。農政学者としての柳田が、どこまで実際に朝鮮の土地(調査・収用)政策に関与できたのかは全く不明だが、少なくとも土地収用関係の法令起草者としてのかかわりは十分あったと考えていいだろう。
つまり、初期・柳田民俗学のキーワード「山人」とは、彼の農政学者としての「視点」と、植民政策遂行者としての「立場」から生み出された《方便》とも言えよう。従って、論理的齟齬(そご)がある「山人」は、彼の民俗学転向の中で消え去ってしまったのである。
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朝鮮の民俗知る故に朝鮮無視した民俗学
初期の「山人」に変わって、後期の「転向」柳田民俗学のキーワードととして登場したのが「海上の道」である。
このキーワードのアイデアとは、日本の民俗・文化の「基層」として沖縄や奄美など南西諸島の民俗や文化を想定し、それらは「黒潮」に乗って日本列島に漂着し根付いたというものである。
このアイデアは、柳田と親交があった(後に絶交する)島崎藤村の『椰子(やし)の実』の「名も知らぬ、遠き島より流れ着いた椰子の実ひとつ」というロマンチックなイメージとともに大いに人気を博し、今でも少数の信奉者が残っている。しかし、考古学その他の実証的な歴史学では破綻して久しいものがある。
「海上の道」では、稲作文化も南方から日本列島に伝わったとされていた。考古学では稲作伝来は北九州の対岸である韓半島からが常識であり(一部は中国大陸中南部から直接渡来したとの説はある)、沖縄など南西諸島に稲作が伝わったのは、逆に日本列島からで、12世紀になってからである。
今でも沖縄では水田稲作はそんなに盛んではない。稲作とその関連民俗など諸々の弥生的日本文化の「基層」が沖縄であるはずがない。この破綻した理論に何かの意味があるとすれば、「海上の道」のルートには、巧妙に韓半島が外されているということである。
彼自身、朝鮮と日本との民俗比較は避けなければならないと声高に強調していた。
彼の実弟に松岡映丘という日本画家がいた(国男の実家は松岡家で、柳田家に養子で入った)。映丘が1920頃に朝鮮に旅行したとき、兄の国男にその感動を込めて手紙を書いたことがある。そこには「朝鮮を見に行つて来なくちやいけません。万葉集が歩いてゐますよ」とあった。
後に柳田国男はこの文章を引用し、一時の安易な動機で他国と日本との民俗の類似を語ってはならないという意味のことを述べて、朝鮮と日本との「比較民俗学」を強く戒めている。
当時、韓国併合の史的根拠としての「日朝同祖論」が日本ではむしろ盛んであった。柳田自身も植民政策遂行者として朝鮮を知り抜いているにもかかわらず、また、初期の彼は「傀儡(くぐつ)の渡来」など古代の韓日関係の一部を示唆すらしていたが、後期には徹底して自分の「学問的視野」から朝鮮を外そうとした。
その心奥では、帝国主義者=植民主義者であった自身をひた隠し(とぼけ続け)、あるいは呪っていたのかもしれない。現代の柳田民俗学者たちに柳田の心奥は見えているのだろうか。彼らに『遠野物語』序文のフレーズを借りて、「願わくば、柳田氏自身の言葉を語りて、柳田民俗学を戦慄せしめよ」との言葉を贈りたい。
(2005.12.07 民団新聞)